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 その日の夜、母から電話があった。

「薫、今日お父さんのところ行ったんだって?」

「ああ、行ったよ。何で、知ってるの?」

「さっきお母さんも行ってきたのよ。そしたらあんたが来てたって看護師さんが言ってたから…。それより何で家に寄らないの」

「えっ…、ああ、明日バイトあるから…」

「いや~ちょっと位寄ればいいのに」

「ああそうだね。次は寄るよ」

「でもまぁ、お父さん喜んでたよ。たまには顔見せなさい」

「うん、わかったよ」

そう言って電話を切った。

 どうして母との会話がこんなにぎこちなくなったのかは、今日の突発的な行動をまだ把握し切れていないというのも一つの要因だった。いくら太郎のカウンターが効いたからといって何故、僕は突然父に会いに行ったのか?母からの電話でようやく“会いに行った”という実感が湧いてきたが、行動の理由は一向にわからなかった。

 

 それから数週間経った。秋が一層深まりをみせる中、僕はいつも通り漆黒のレコード盤を磨いていた。時計は五時をさしている。薄暗くなった窓の外を、缶コーヒー片手にぼんやりと眺めた。後十枚商品化したら煙草を吸おう。そう決めて、次の一枚をストック箱より引き抜いた。

 

 目標まであと二枚というところで、カンコンカンコンと階段が鳴った。

「お疲れ~」

そう言いながら夢はカウンターに入ってきた。

「ああ、お疲れ。今日ちょっと遅いんじゃない?」

「深沢さんと緊急会議よ。最近オークションの調子良くないから」

「あれ?本もそうなんだ。レコードも伸び悩んでるよ」

「あっそうなんだ。でもまぁ、何とかなるでしょ。それよりさ、カオリン次休みいつ?」煙草に火をつけて夢が言った。

「日曜かな。週末」

 煙草を吸う夢を見ながら「俺はあと二枚」と心の中で呟いた。

「サンプラー買おうと思うんだけど、付き合ってくれない?」

「おお、いいよ」

「本当?良かった。じゃあ日曜、よろしく」

おい、まだまだ吸えるぞ、と思ってしまうほどの長さで夢は煙草を揉み消すと「じゃあね」と帰っていった。

夢を見送って、僕は灰皿でコテッと倒れる煙草に目を向けた。

「俺は、あと、二枚」

まだ微かに残る煙の誘惑に晒されながら、そう頷いて僕は仕事に戻った。

 

 ドアがガリガリと音を立てて開いた。最近はガタがきているのか、開閉時に変な音を度々響かせるようになった。「よっ」と声がしたが、最後の一枚の値札を書いているところで、顔を上げる余裕などはない。「これが終われば一服だ」僕はペンを走らせながら、間違えないように書くことに集中した。

「おい、無視か。おい」

「ちょっと待って、これで終わりなんだよ」

「終わり?何が?」

カウンター前まで来て、値札を書いている僕が発する空気を読んだのか、敏夫はCD棚に向かった。

 

「よしっ」

値段のスタンプを押し、値札をジャケットの右上に貼り付け、商品化を終えた。ふう、と一息ついてCD棚を指でなぞりながら見ている敏夫に目を向けた。

「何かお探しかい?」

カウンター内から僕は敏夫に呼びかけた。

「ん?…ジャズ」

敏夫は棚を見つめながら言った。

「ジャズ?スピリチュアルなヤツは今無いぞ」

「そういうんじゃねぇよ。何かもっと上品な感じのやつ」

「上品?」

僕はカウンターから敏夫の傍に寄っていった。

「いやさ。メートルが好きらしくてさ。店でよく流れてんだ」

「へぇ、洋食屋ってクラシックって感じするけどな」

「えっお前、メートルの意味わかんの?」

敏夫がいかにも、からかうようにニヤけた。

「ああ?知らねぇよ。あれだろ?…偉い人?じょ、上司?」

僕は敏夫の仕掛けた罠に見事に引掛かった。

「上司?つーか、まぁフロアを仕切ってる人だな」

笑いながら、ちょっと大人ぶった敏夫を横目に、軽くムカつきながら僕はCD棚に目を移した。

「そんなことより上品なジャズだろ?あっこれオススメだよ」

ちょうど面陳になっていたジョルジ・アウトゥオリのCDを敏夫に手渡した。

「ふぅ~ん、ブラジルってボサノヴァじゃないの」

「えっお前、ジョルジ知ってんの?」

僕はおどけたような笑いを浮かべた。

「ん?だから、あれだろ?ほら、ボッサ・スタイルのジャズだろ?名盤だよな」

「帯読んだろ」

「ああ?うるせぇ。ちょっと聴かしてや」

見事にリベンジを果たした僕は、勝ち誇った憎たらしい顔で敏夫からCDを受け取ってカウンターへ戻った。

 

 「綺麗なピアノだな」

十秒も聴かない内に、敏夫がカウンターに肘を掛けながらジャケットを眺めて言った。

「そうなんだよね。このピアノの音さ、何て言うか…瑞々しくない?」

「そうだな。フレッシュな感じするな」

「これはオススメだよ。俺が知ってる綺麗なジャズの中でもトップ・クラスだね。ピアノといい、リズムといい上品な感じするだろ?」

「する…ねぇ。そう言われるとそんな気もしてきたわ」

こちらに背を向けてカウンターにもたれながら無言でいる敏夫の前を商品化したレコードを抱えて売り場へ運んだ。

「あれ?手伝わないの?」

「客だぞ。俺は」

「いいから、ほら、そこのレコード運べよ」

面倒くせぇな、とぼやきながら敏夫はレコードを数枚小脇に抱えた。

 

 「なあ」

棚にレコードを補充しながら敏夫が言った。僕は少し離れた所から「何だ」と同じく補充をしながら言った。

「…今週末、帰るわ」

僕はピタリと手を止めた。

「そっ…かぁ、いよいよか。…以外と早かったな」

あっという間の時の流れに僕はすっかり寝耳に水状態だった。

「まぁ、しばらくは実家暮らしだけどよ、慣れればすぐに出るつもりだから。そしたら連絡するから遊びに来いや」

「まぁ、落ち着いたら連絡くれよ…」

敏夫の方を見ずに、僕はまた作業に戻った。

 そう言ったきり、僕らは無言でレコードの補充を続けた。敏夫は一足先に作業を終え、二階へ上がっていった。僕はカウンターに戻るとジョルジ・アウトゥオリは止めた。店内は水を打ったように静まり返り、僕はそこにポツンと立ち尽くした。

 

「二階の人も変わってないな」

そう言って敏夫が階段をヨタヨタ降りてきた。

「何も変わらねぇんだよ。この店は。また暇になったら来いよ」

「そうだな……、でもよ…」

敏夫はカウンターに置いたままになっていたジョルジのCDに目を落とした。

「次来る時は、お前がいないことを願ってるよ」

「ああ…気遣いどうも。でも俺は…もうしばらく、ここに居ようと思うよ」

「そっか、まぁ、何でもいいわ。お前のやりたいようにやればいいんじゃねぇ?」

敏夫は投げ遣りにそう言い放って、溜め息をついた。

「でもよ、この店に俺が居なかったらお前、寂しいぞ」

僕は笑って妙な空気を塗り替えた。

「それもそうだな。もう主だもんな」あきれ気味に敏夫は僕を眺めた。

「音楽好きのオアシスなんだよ」

「オアシスねぇ…、でも覚えとけよ。居心地が良いってだけじゃ生きてけねぇぞ。いつか本当の居場所を見つけろよ」

これ買うわ。敏夫はCDをズイと差し出した。

 

 「いやぁ…でもさ、数年離れると地元って結構変わるもんだな」

会計を済ませCDを受け取りながら敏夫は言った。

「そりゃあ変わるさ。いいんじゃない?いつ行っても同じじゃ面白くないじゃん」

「わかってんじゃねぇか。まぁよ、知らないことばっかで大変だけどさ、覚えていくと意外と楽しいんだ。悪くねぇよ」

「そりゃ良かったな。」

「じゃあまた、帰る時には寄るよ。日曜な。ちゃんと居ろよ」

「おう、またな」

 後姿を見送った後、何故敏夫がくどい程『次の道を探せ』というのか、わからなかった。だが「大きなお世話だよ。大体、お前俺の年でまだフリーターだったじゃねぇか」という捨て台詞は、虚しかった。あいつは次の道を見つけたのだ。それが羨ましく思えた。僕はフロアを見回した。約三万枚のレコードが沈黙の中、静かに佇んでいる。僕はふと、プレステのスタートボタンを押した。ジョルジ・アウトゥオリの美しいピアノが軽快に店内を包み込み、僕は我に帰った。

「あれ?何で?」

試聴したままで、中身を入れ忘れたことに気づいた。

「俺を困らせた天罰だな」

 空のCDをメートルに渡した敏夫の慌てっぷりを想像すると、笑えてきた。笑いながら音を止めて、ディスクにキズが付かないようにフォルダーにCDを入れ、鞄にそっと投げた。

 

「あ、そういえば…」

 僕は何だか雲行きの怪しい頭を晴らすべく、フロアーからダーティー・ダズン・ブラス・バンドのCDを持ってきて、プレステにセットした。低いリズムから徐々に盛り上がっていくその音とシンクロするように気分も乗ってきた。僕は陽気なリズムに乗っかりながら煙草に火をつけて、ようやく一服にありついた。

 

 

 

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