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 フリーターとしての日々に戻ったある日、テレビにあの日の海と同じような現象が映っていた。

「…海上の温度が海面よりも下がると、このような現象が稀にみられます…」

 そんなに寒かったっけ?自然現象であることがどこか悔しくて首を傾げた。僕はあの光景を瞼の裏に当てて、椅子に深く座り、背もたれに反って天井を見た。

「天竺みたいだったなぁ」

 朝日が後光のように光り輝き、薄っすらと張った雲の中を、生き物のように波がうねっている。あの雲を透る波に揺られて、千円ヒコーキはきっと父へ届いただろう。そんなことを思いながら、僕は目を開けて姿勢を戻した。

 

 新聞受けから軽い音がした。開けてみると大きな封筒が入っていた。夏樹からだ。僕はポンと机に置いて、煙草を吸いながら封筒を凝視していると携帯がブルブルと震えた。美雪からだった。

「おう、どうした?」

「『どうした?』じゃないわよ。まったく連絡くれないじゃない」

「ああ、ごめん。何か色々あってさ」

「そんなこと言ったら私だって色々あるわよ」

「…そうだな」

「誰だって皆色々あるんだから、色々のせいにしないで」

「そうだね。うん、悪かった」

「まぁ、敏夫がいなくなって寂しいのはわかるけど…」

「あっわかる?俺もさ…」

 そうなんだよ。何だか日々に張りが無くなっちまってさぁ…のようなことを言おうとすると美雪の言葉が僕を遮った。

「でも乗り越えなきゃダメよ」微かに美雪がニヤリとした気がした。

「ああ、そうだね…で、今日は何のよう?」

「この前言ってた、何だっけイアン…何だか、あの感じの音ね、私やっぱり好きみたいなのよ。だから教えて」

「パンク/ニューウェーヴだから、スミスとか、ストラングラーズとか、あっピストルズは?」

「セックス・ピストルズ?あれは違うじゃない」

「じゃあパンクじゃないんだな…そっかぁ、何かなぁ、急に言われても浮かばねぇな」

「OK。じゃあ明日、CD屋巡り付き合って」

「明日?ああ…いいよ」

「じゃあ明日ね」

 すっかり立ち直っていた美雪と話している内に、いつしか僕の中にも前向きな姿勢が芽生えてきた。

「俺もいつまでもこんなんじゃあ…駄目だな」

 天井にグーと大きく手を伸ばした。不思議なもので、そう考えると元気が湧いてきた。

 

 電話を切って封筒を開けるとパンフレットが数冊入っていた。一冊引き抜くと何だか次のステップを踏み出した感じにドキドキした。煙草を吸いながら開いてみた。しかしテンションが上がってきた僕の目は内容などは殆ど読み取らずに、大きな文字と、その写真や色合いをただただなぞっていた。

 

 学校の模式図を見ていると、また携帯が震えた。その着信に僕は笑みを浮かべて携帯を開いた。

「おう元気か?」

「『元気?』じゃねぇよ。CDよこせや」

「ああ?お前が勝手に帰るから悪いんだろ?CD割るぞ」

「ああごめん。悪かった。やめて、楽しみにしてる人がいるから」

「順調そうで何よりだよ」

「今のとこはな、何とかやらせてもらってるよ」

「そっかぁ。俺さ、学校行ってみようと思ってんだ」

 手に取ったパンフレットを見ながら僕は言った。

「おお!いいじゃねぇか。でも寂しくなるなぁ」

「うるせぇよ。じゃあCD送るよ」

「おう、頼むわ。じゃあ元気でな」

 口をついた一言に驚きながら、携帯を置いて、僕はパンフレットに目を戻した。「えっ俺、学校に行くの?」改めて考えるとそんな気は更々無かった。テンションの仕業としか言いようがない。「少し冷静に文字を読んでみよう」とパンフレットの最初のページをめくると、間から紙が一枚するりと落ちた。

 

『久々に会えてよかったよ。行く行かないはあんたの自由だからね。またいつか逢える日を楽しみにしてるよ~。じゃっ元気でね』

 

 あいつこんなに字きれいだったのか。あの性格にそぐわない整った字だった。僕はそのギャップに笑いながらパンフレットの上にフワリと重ねて、バイトの準備をした。

 

 「京都で頑張ってるってさ」

 店内にはビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』が流れている。ダンボールを運ぶ僕に社長がボソッと呟いた。

「えっ何すか」

「竹賀谷君、京都でやってる知り合いの本屋で働いてるってさ」

「マジっすか?」

 恐るべき中古屋ネットワーク…。僕はその繋がりに感心しながらレコードを選んでいると社長がレコード針をプツッと上げた。

「あっ行かれますか?」

そろそろ交代の時間だ。そう思いながら振り返ると、社長はまた針を下ろした。それまでカウンターに両肘を着いて、春の陽気にすっかり呑まれていた社長はゆっくりと動き出した。

「じゃ後よろしく」

“神のみぞ知る”の軽快なイントロに合わせて、社長はいつものようにどこかへ行ってしまった。

 

 翌日、CD屋巡りのために僕は家を出た。まだ微かに雪を乗せている街路樹が陽の光に煌いている。ぼんやり見上げながら歩いていると突然視界がガクンとずれた。解けている靴紐が水たまりに浸かっていた。はしゃぐ子どもの声が楽しげに大空に反響している。

 公園前でしゃがみ込み、紐を結んでいると、鏡のような水たまりに目が留まった。枯葉の乗った晴天の空が、頬を掠める春風になびいている。立ち上がると、ちょうど映りこんだポッカリ浮かぶ雲が一つ、漣立って、そよいだ。

 

 

 

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