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                「雲をとおる波」

                                衣斐 大輔

                                         序文

 

 まずこの小説を読む前に、言っておかなければならない。書いている時は「まさか」だった父のSCDは、僕に遺伝していた。まったく言葉もない。しかも進行スピードが父よりずっと早く、もう車椅子生活だ。この頃は想像もしていなかった。

 

                                         1

 

 耳に当てたヘッドフォンに両手を添える。

 耳鳴りのような電子音がゆったりと波打っている。やがてその波は他の音と複雑に絡み合いながらカオティックにのた打ち回り、次第次第に鼓膜を圧迫し始めた。その混沌とした音像を本気とも冗談とも取れない表情で作り上げている僕らの姿を思い浮かべながら、首を天井へ傾けた。

 「オオー!」

 敏夫が怒声を上げスネアをバシッ!と叩いた。ヘッドフォンごしにも伝わってくるその迫力に押されたのか、あぐらで座っていた僕は少し傾けた首の動きの流れに体を呑まれ、ダルマのようにゴロリと後ろへ倒れこんだ。

 「イテッ」

 後頭部で何かが潰れた感触がした。床を見るとビスケットが袋から出た状態でコナゴナになっていた。「ったくよ」後頭部に付いたビスケットを払い、立ち上がるとヘッドフォンはプレイヤーから抜け、爆音ノイズが部屋中に響いた。慌てふためきながらもすぐさまプレイヤーの電源を切ったが、外で雀が一斉に飛び立つ羽音が聞こえた。向かいの電線には毎朝雀がたむろしてチュンチュンと鳴いている。ヘッドフォンを外しベッドへ放ると、机に腰掛け、大きな窓から外を見ながら煙草を取った。

 「久々に午前中に起きたってのにさ」

 後頭部をさすり、ぼやきながら煙草に火をつけた。曇りガラスに明るい日差しがボンヤリ映っていた。

しばらくすると雀達が戻ってきた。煙を深々と吐き出して、両手をグッと上へ伸ばした。

 「悪かったなぁ」

 あくび混じりに謝罪すると雀の声がまた増えた。コーヒーでも飲もうとクルリと旋回し台所へ行く途中、床に散らばったビスケットに気づいた。しゃがみ込み、クズを集めて捨てているとベッドの下に缶ビールが一本転がっていた。両手をほろってから、取り出して机に置いた。僕はまた窓の方を見て机に腰掛け一息煙を吐いてからビールを開けた。煙が光に照らされ雲のように、渦巻いて目の前に浮かんでいる。

 

  「開けろコラァ!」

 その怒号と共に雀がまた、慌ただしく飛び立った。ノブをガチャガチャと忙しく回したかと思うと、ドガーンと勢いよくドアを蹴り上げる音が響いた。ベッドでウトウトしていた僕は一瞬自分の部屋かと思い、跳ね起きてドアをじっと見つめた。それほどリアルに聞こえた。厚い木の板に薄いプラスチック板を張り合わせたドアに防音効果などある訳もなく、だいたいの音は筒抜ける。デカイ音なら尚更クリアだ。

 「何なんだよぉぉぉ」

 そう喚いて、またドアをガッと蹴った。その嘆き声で頭を抱えている奴の見当がついた。ビールの残りを飲みながら目を擦り、灰皿を机から床に置いた。

 「ああぁぁ、もうっ!」

 外では苛立ちがドアにぶつかり反響している。

 

  「ああクソッ!勘弁してくれよ、オイッ」

 畜生!ドシンッと二階の通路に地団駄踏んだ。その怒りは地続きになっている僕の部屋まで届いた。煙草に火を点け一服してからドアの横の大きな窓に目をやった。明るいオレンジ色が曇りガラスに映っている。暖かそうだ。煙草をくわえ、サンダルを履いて外に出ると春の陽気がふわりと体を包んだ。

 「おう、最悪だよ」すぐに僕に気づくと、ぶっきらぼうに言い放ちこちらを睨んだ。

 「おはよ、あんまりガンガンすんなや。鳥がビックリすんだろ」

 「ああ?鳥?ふざけんな」

 怒号の主は四軒奥の部屋の敏夫だった。

 

 「そこの自販にジュース買いに行ってさ、帰ってきたらドア開かねぇの」

 「何で?」

 「知らねぇよ。でもさっき中で物音したんだよ。だからもしかしたらその一分位の間に誰か入ったのかもしれねぇ」

 マジで?このアパートは、通りに面した方とその奥の両方に階段がある。敏夫の部屋は奥の方で、自販機は通りに面した階段の横にあるから、ジュースを買っている間に奥の階段から上り、部屋に入り込む可能性は考えられなくもない。

 「いずれにせよだ」

 ドアをドンドンと蹴りまくる敏夫に僕は言った。

 「蹴ったって開かねぇだろ、カギ屋呼ぼう」

 「カギ屋?強盗だったらどうすんだよ」

 「強盗?」

 『強盗』という言葉に僕の思考列車は次第にネガティヴ方向へ加速し始めた。ドアを開ける→強盗現る→暴れる→怪力男との決闘、と様々な駅を通過した後、『中には包丁がある』という所で終着となった。

 「ヤベェーな。じゃあ…警察か?」

 「ああ…110番で、頼むわ…」

 ドアを睨みつけたまま敏夫は唇を噛んだ。

                  

 サンダルをパタパタさせながら部屋に戻り、くわえていた煙草を灰皿に押し付けると携帯を取りとっさに“110”と押した。すると急に頭は冷静を取り戻しはじめた。突然の出来事で“流れ”のように110番を押したが、果たして本当に良いのだろうか。強盗…?いねぇだろう…。そんなことを考えている間に110番はつながってしまった。迷いはあったが人が入り込んだらしいという事実に間違いはなさそうだ。だから大丈夫…なはずだ。そう自分に言い聞かせた。

 「はい、もしもし」

 「えっと、あのぅ、友人の部屋に人が入り込んじゃったらしいんすよ」

 「わかりました。場所はどこですか」

                  

 煙草とライターを持ち、携帯をポケットにしまい外へ出ると、敏夫は部屋の前の柵に座り込み、足を伸ばしてドアをこずきながら何やらボヤいていた。

 「来てくれるとさ。警察」

 「そうか、何か言われた?」

 「いや、あんまりすんなり話が進むもんだから、驚いた」

 「この辺の警察はさ、ほら…持ってるから」と言いながら敏夫は腕を叩いた。

 「何?…あぁ、美雪の時のことか?」

 

 美雪は敏夫の彼女だった。ちょうど二人が付き合いだした頃、援助交際の相手に薬を盛ったという容疑がかかり、取調べが行われた。両親の離婚で自棄を起こしたらしいが、元々行動が天然で捉えどころがなく、加えて妙な癇癪持ちで、話し辛いったらなかった。そんな美雪がその取調べ以降、少しずつ良い方向に変わってきて、今ではキレイに伸びた金髪をなびかせて、僕らと同じフリーターとして収入を得ている。結局あの取調べで何があったのかは分からないが、僕としては結果オーライ。敏夫も彼女が健康的になって嬉しそうだった。

 

 「あいつをあれだけ軌道修正させるなんてハンパねぇぞ」

 「確かになぁ…。あっそれより、美雪に昨日のこと伝えたのか?」

 「ん?ああ、言っといたよ…。…彼女だぞ?その辺はちゃんとしなきゃな」

 

 僕の部屋には奥にも小さな窓があったが、敏夫の部屋の出入り口はこの正面のドアか大窓の二つしかない。つまり僕らがここに居る以上中の奴が姿を見せずに逃げることは不可能だ。

 「吸う?」

 「もらうわ」

 煙草の箱とライターを渡して僕は柵にもたれながら大きな窓を見た。窓は外から片窓のみの網戸、透明ガラス、曇りガラスの三層で曇りガラスのおかげで中の様子はまったくわからない。ドアの下は蹴りの応酬のせいで凹みを見せていた。

 「何なんだかなぁ、ツイてねぇな」

 煙草をくわえ、座ったままドアを小突く感じで蹴りながら敏夫はそう吐き捨てた。

 「戸壊れるぞ」

 「そうだな、いっそ壊しちまうか」

 「落ち着けって、もうすぐ警察も来るからよ」

 敏夫は通りの方にチラリと目をやってから、溜め息をつきながら頭を下へガックリと落とした。

 「そうイラつくなよ。逃げ道はここしかないんだしさ。少なくとも物盗られる心配はない」

 「そんな心配してねぇよ。ただいきなり自分の部屋を占領されてみろ。誰だってイラつくだろ」

 大きくアクビをした後で、吐いた煙が緩い風に流れ敏夫の顔を覆った。ゴホッと咽たその音が心地良い陽気の中に響いた。

 「そういや、随分静かだな」

 「何やってんだかよ」

 そう言うと敏夫は強烈な一蹴りをドアにお見舞いした。アパート中が揺れたと思われるほどの音が鳴り響いた。その蹴りの後すぐに、「ガイーン」と何かが倒れた音がした。その音は悲鳴のように僕の耳に突き刺さった。直感が脳内を走った。

 「おい、今の俺のギター倒れたんじゃない?」

 「ああ?ギターだぁ?んなもん知らねぇよ」

 「マジかよ。絶対今倒れたよ」

 ガッカリとうな垂れながらドアへ目をやると、下部に付いていた金属板はメキメキと剥がれて、ネジ一本でブラブラとしていた。スゥーと吐いた煙の向こうに半円状のくっきりとした窪みが透けて見えた。

                   

 「それもらっていい?」

 傍に転がっていた缶コーヒーを指差すと、敏夫は無言で僕に手渡した。飲み口の砂をほろい凹んだドアを見ながら僕は、少しずつ状況を整理し始めた。本当に中に人はいるのか?こいつは必死になって終には、金具まで壊す会心の一撃をかましたが、どうも入っていく所を見たわけではなさそうだ。横目でチラリと敏夫を見ると眉間に皺を寄せドアを睨みつけていた。とても状況を聞ける雰囲気ではない。今のこいつは肯定の言葉以外はすべて火に油だ。疑いなど以ての外。しかしひょっと顔を出した懐疑心はみるみる脳内に広がった 

 僕は煙草をもみ消して、コーヒーを一口すすった。いくら春の陽気に誘われたからって、こんなボロアパートにフラッと入るか?例え強盗であったとしてもだ。無計画すぎる。だから恐らくまともな強盗ではない。だが随分おとなしい。カギをきちんと閉める辺り頭はそれなりにまともっぽいなぁ。

 「今日バイト?」

 そんなことを考えていると、険しい表情まま溜め息混じりに敏夫は言った。

 「ん?ああ、三時から、そっちは?」

 「休み」

 早口でそう返すと敏夫は煙草をくわえた。機嫌の悪さがその一言のスピードに滲んでいた。不機嫌そうに火を点け「ああ畜生、せっかくの休みによ」と低い声で呟いた。僕はコーヒーをグビグビと飲み、缶を床に置くとすぐに敏夫は煙草の灰を、缶に落とした。

 「おい、まだ飲んでんだよ」

 「ああ?知らねぇよ」

 「もったいねぇだろ」

 「これは俺のコーヒーだ。どうしようが俺の勝手だろうが」

 「空けたばっかりだぞ」

 「ああ分かった分かった。これ以上イラつかせんな」

 僕の声を断ち切ると膝に手を乗せ気だるげに立ち上がり、一歩踏み出しノブを力強くガチャガチャと回し始めた。

 「いいかコラ、テメェ出てきたらボコるかんな」

 そう言って網戸をピシャッと反対側へ押しやった。

 「お前そんなこと言ったんじゃ、出てこようにも出てこれねぇじゃねぇか」

 僕も立ち上がり後ろの柵に寄りかかりながら言った。

 「人事だと思って余裕かましやがって」

 「そうじゃねぇよ。ただノブ壊したら高くつくぞ、きっと」

 「分かってるよ、クソッ」

 腰に両手を当てこちらへ振り返り、険しい顔のまま僕の隣にもたれると体をグーと反らし、そのまま首を柵から伸ばした。

 「あっ」

 「ん?」

 「雨だ」

 敏夫がそう言うと陽が燦燦と照る中にサァーと突然降り始めた。

 「雨雲なんてあるか?」

 「風で流れて来たんじゃねぇの」

 僕はノソノソと立ち上がり、柵に手を置いて、空へ目をやった。広がる青空を透かすように、薄っすらとした雲が一帯を覆っている。

 「狐の嫁入りか?」

 どこかで聞いた知識が、不意に口をついた。

 「あ?」

 「いや天気雨ってそう言わない?」

 「知らねぇよ」

 そう言うと敏夫は雨だれを顔に当て始めた。僕は両手を組んで上にグッと伸ばした。しばらくすると雨音に混ざって通りの階段の方から靴音がした。見るとスーツ姿の男が二人、こちらに軽く会釈してスタスタと向かって来た。

                   

 「こんにちは」

 「あ、どうも」

 僕はヒョッと首を前に出した。敏夫はブツブツと言いながらまだ顔に雨を当てている。

 突然の天気雨にスーツの肩が濡れていた。ふと通りに目をやると、パトカーが止まっていた。独特の厳粛な空気を纏っているベテラン警部と僕と同い年位の巡査のコンビに見えた。

 「おい、来てくれたぞ」

 「ああ?誰がよ?」

 僕を見たその目はそのまま二人の警察官へと流れた。

 「ああぁ…どうもっ」

 びしょ濡れ顔のまま、少し声を詰まらせて敏夫はペコリと頭を下げた。

 「入っちゃったの?」

 そんな敏夫に動じることなくベテラン警部は僕に尋ねた。

 「らしいんすよ。あっ僕じゃなくて、こっちです」

 「あっ…、そうでしたか、では状況を教えてもらえますか?」

 敏夫は時折顔を手で拭っている。そんなびしょ濡れ顔の敏夫にノーリアクションのまま、質疑応答は進んでいった。僕は後ろの柵にもたれながら事の行方を見守ることにした。

 

 警部が敏夫の話を聞きながらメモを取っている間、巡査はノブをガチャガチャと回し開かないことを確認すると腰に両手を当て、一呼吸ついてから今度は窓をドンドンと叩き「おーい」と呼びながら曇りガラスを覗き込んだ。そんな巡査を見てる間に、一通り話し終わったらしい敏夫が僕の横にやってきて、同じように柵にもたれた。

 「どうやるんだろうな」

 敏夫が小声でそう言った。僕は無言で薄っすら笑みを浮かべながら首をひねった。

 

 数分でメモを取っていた警部は引き返していった。すると警部とすれ違いに細身でメガネを掛けた男が向かってきた。その後ろから防護服を着た長身の男が二人、続いてやってきた。それを見た敏夫は顔をシャツでゴシゴシと拭ってから再度、その三人に目をやった。

 「何かさ、自信無くなってきた」

 「今更何言ってんだよ。お前は被害者なんだからさ。堂々としてろよ」

 「でもさ、これでもし中に人が居なかったらヤバくねぇ?」

 「大丈夫だって。頭のイカれた怪力強盗が包丁握って待っててくれてるさ」

 結果がどうあれ、カギが閉まった原因が分からないので、安全保持のため警察の力を借りたというのは筋が通っているから怒られることは無い、という110番した時の付焼刃の思いつきがここにきて確信に変わった。そうこう考えている内にドアの前には戻ってきた警部を含む五人の警官が集まっていた。

おい、敏夫が通りの方を見ながら、そう言ったきり口を空けたまま固まった。通りには三台目のパトカーが到着し、天気雨降りしきる中、さらに三人の警官が増員された。雨脚が一瞬強まった。

 

 「スゲー事になってきたな」不安そうに敏夫が言った。

 敏夫の部屋の前には警部と巡査と細身のメガネと防護服を着た男が二人、バインダーを持った婦警と窓枠を調べている作業着を着た初老の男、そしてその助手のような男が黒い道具箱を持って窓枠の傍に立っている。計八人もの警官がボロアパートの狭い通路に集結した。

 「有料…かな?」

 その光景に顔をしかめながら、敏夫は言った。

 「えっ警察って金とんの?」

 「わからんけど、こんだけの人手を借りるんだから…、無料なの?」

 「どうなんだろ?気になるんなら一応訊いてみれば?」

 「あのぉ」

 若い巡査が、懐事情を気にする敏夫に尋ねてきた。

 「窓を外して中に入ろうと思うのですが、窓の裏側はどうなっているでしょうか?」

 「裏?裏にはですね…いえ、大丈夫、特に何もないっす」

 「そうですか、では入っても大丈夫ですね」

 「ハイ、よろしくお願いします」

 僕は目の前の八人の警官と固くなった敏夫、そしてこうして傍観をきめ込む自分というこの妙なトライアングルが段々と面白くなってきた。口元が緩んできた僕はバインダーを持った婦警と不意に、チラリと目が合った。この場で笑ってるのはマズイ。確実に怪しまれる。変な疑いを持たせてこの場を混乱させてはいけない。そう思った僕は婦警に軽く会釈して、笑いを飲み込んだ。婦警は表情はそのままに、すぐに窓の方へと目を戻した。

 

 「ドライバーちょうだい」

 じいちゃんが助手に言った。僕は興味津々でその様子を観察していた。まず網戸を外してから透明ガラスの下部のネジをシュルシュルと抜き取った。すると下部が緩み小さな隙間が出来た。そこにマイナスドライバーを押し込みテコの原理でヨイショと押し上げ手前に一溝ずつ引き出していく。カギで二枚のガラスが繋がっているためもう一方の窓にも同じようにして繰り返していく。これには相当な力がいるのか、じいちゃんは顔を真っ赤にして、こめかみに血管を浮かせながらの作業だった。僕はただ固唾を飲んで見ていた。

 「居てくれよ…」敏夫が祈るようにつぶやいた。

 「居ないほうがいいんじゃないの?」

 僕が、からかうようにそう言うと「うるせぇ」と即座に小声で返してきた。

 

 「よし!外れた」

 二枚繋がった大きな窓をそっと床に置き、残る曇りガラスをクッと上へ持ち上げて抜き取った。前に防護服が立ったせいで中はよく見えない。周囲の緊迫した空気のせいか、敏夫の見当違いの祈りのせいか、僕も何かはいるだろうという期待に息をのんだ。

 

 ピンと空気が張り詰める中、僕は先程飲み込んだ笑いが腹の中で動き始めるのを堪えながら二人の防護服の隙間から中を窺ったがよく見えなかった。敏夫はいつの間にか最前線に繰り出していた。窓が外れたと同時に目の前の人口密度は突如高まり、視界はあっという間に塞がれてしまった。まぁ、いくら警察でもそりゃあ見たいわな。そう思いながら僕は覗くことを諦め窓に背を向け空を見上げた。雨が小降りになっている。もうすぐ止みそうだ。そんな風にボンヤリしかけていると雨音に混じってシャカシャカと小さな電子音が後ろから聞こえた。

 「ん?」

 振り返ると二人の防護服の隙間から部屋までの視界はポッカリと空いていた。まず目についたのは、横たわる僕のギターだった。「ああ、やっぱりな」と思っていると、すぐに視界に妙なものが入ってきた。

 日本人形みたいな黒髪オカッパのざんばら頭がこちらに背を向けヘッドフォンをして座っている。見た瞬間僕はビクついた。本当に居たのか!しかもこの状況で音楽鑑賞かよ。どういう神経してんだ。でも…あれ?何で警察は動かねぇんだ?顔を見あわせ合う警官達を不思議に思いながら僕は先頭の敏夫へと歩み寄り窓枠数センチからその姿を眺めたが、先入観と興奮が視神経に影響したのか、人間であるのかどうかさえ、はっきりとは判らなかった。

 「何だアレ…知り合いか?」

 「多分…おい、美雪か?」

 敏夫は自信なさげにそっと呼びかけた。

 「美雪?オカッパだぞ」

 「うるせぇ、黙ってろ」

 警官一同は明らかに混乱しているようだった。すると巡査が敏夫に尋ねた。

 「お知り合いの方ですか?」

 「はい…そう…みたいです」

 そう言うと敏夫は窓枠に足を掛けヒョイと部屋へ入り込み、「おい」と黒髪の肩を掴み顔を確認してから「知り合いです」と溜め息混じりに言った。

 

 溢れかえっていた警官達がポツリポツリと去っていく。その間も美雪はヘッドフォンからシャカシャカと音を漏らしながら坊主のようにじっと座ったままだ。この状況で、こちらを振り返ることなくいられる精神力は最早「禅」のようでもあった。そんな美雪の背中を見ているとカチャッと音がして、敏夫が内側から静かにドアを開けた。

 「えっと、では大丈夫ですね」

 申し訳なさそうに出てきた敏夫に巡査はホッと安心したように言った。

 「はい、お騒がせしてすみませんでした」

 頭を掻きながら下げる敏夫に「いえいえ」と言って巡査は足早に去っていった。

 「では、こちらの記入よろしいでしょうか」

 バインダーを持った婦警がペンを敏夫に渡した。

 「あのぉ…お金の方は…」書きながら敏夫は婦警に尋ねた。

 「は?」

 「あっ、いえ、その…すみませんでした」

 「大丈夫ですよ…色々な人がいますから」

 「あっ、あれは彼女なんすよ…別れた」

 「あっそう…でしたか…」

 婦警は明らかに気まずそうだった。そんな事を聞いている内に窓は定位置にはめ込まれていった。「よっ」最後の網戸をすんなり収めると窓の滑り具合を確認した。その際に美雪の背中に少し目を留め、敏夫の方をチラリと見るとその視線に気づいた敏夫と目が合った。「では、窓枠の方は終わりましたので、失礼します」じいちゃんはすぐに笑顔でそう言うと、敏夫は小さく頭を下げた。

 

 「凄かったな」

 車のエンジンの音が聞こえた辺りで僕は敏夫に言った。

 「ああ、悪かったな。後は大丈夫だからさ」

 「あれ?別れたの?」

 「そりゃ帰るんだからさ。ケジメつけとかないとって思ってさ」

 「帰るったってまだ、半年も先の話じゃねぇか」

 「いや思ったが吉日って…ああ、もういい。今度また話すから」

 そう言って僕を押しやるとパタンとドアの奥へと消えていった。まぁ、色々な人がいる…けどなぁ。と笑いを噛み締めながら部屋へと歩いていると、通りに一番近い部屋に住んでいるおばちゃんがヒョコっとドアから顔を覗かせ「何かあったの?」と尋ねてきた。

 「いえ、ただの間違いでした」

 「でも警察、たくさん来てたでしょう」

 「ええ、でもその人数程の事は何も無かったですよ」

 成り行きを説明しようかとも思ったのだが、口を開くなりその気が失せてしまった。

 「そう…ならいいんだけど」

 僕に話す気が無いのを悟ってか、おばちゃんもそれ以上は聞かずにドアを閉じた。辺りは静まり返り向かいの公園ではしゃいでいる子供の声が一帯に響いた。部屋に戻り時計を見上げた。二時四十分。僕は急いでバイトへ行く支度を整え再び外へ出た。雨上がりの空から差し込む光に細めた目を敏夫の部屋へチラリと向けてから、僕はしっかりとカギを掛け階段を駆け降りた。

 

 

 

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