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 穏やかな水たまりが、夜に染まった道路に点々とある。エフェクターケースを揺らし、ギターを肩に担ぎながらスタジオへ向かった。太郎とのセッションは今日で最後だ。準備をしている時、あのマンソン・メイクが頭を過ぎった。わざわざあのために化粧品を買いに行ったというのも、まったくもってバカだ。僕は何度も口元を弛ませながら、ミンガスへ向かった。

 

 ミンガスは雑居ビルの二階にひっそりとあるスタジオで、高めの年齢層の方が多く、会社帰りのスーツ姿の人をよく見かけた。学生などには、あまり知られていないらしく、ガタのきている建物のボロさが、妙に落ち着いた雰囲気を醸し出す穴場的な場所だった。

 

 階段を上り、ドアを引くと長椅子に座った夢が、向かいの太郎と話しているのが見えた。

「あら?」夢が煙草を燻らせながらこちらへ目を向けた。

「おう、早いね」

「ちゃんと練習してきた?」

「あ?ああ、ばっちりよ」

カウンターの敏夫に会員証を渡して僕は長椅子へ向かった。

 

「もう部屋は空っぽって感じ?」

長椅子に腰かけて、煙草を取り出しながら太郎に訊ねた。

「まだ、全然。今度手伝ってよ」

「いや、俺も色々忙しいからさ」

「暇な時でいいよ」

「あ、そうだ、CD売ってけよ。かさばるだろ?」

「そうよ。太郎ちゃんだったら、たくさん良いの持ってるでしょ」

「そうだなあ。じゃあ査定も兼ねて、今度手伝いに来て」

「出張買取っていう名目があれば、明日にでも行けるよ」

「本当?助かる」

「カオリン明日出番?」

「そうだよ」

「何だか面白そうね。太郎ちゃんのCDラックって興味あるかも…」

「夢も行く?」

「行く!私も明日出番だから…、私が終わってからでどう?」

「じゃあ夕方辺りだな」

「OK。夕方ね。待ってる」

「お茶とお菓子は用意しとけよ」

「そうよ。部屋片付けといてね」

「何家庭訪問みたいなこと言ってるのさ。俺客でしょ?それに今引越し中だから…」

 ゴチャゴチャ弁解を始める太郎をパンッと一つ手を叩いて僕は断ち切った。

「よし!じゃあ明日は太郎の家探索、決行します!」

「ラジャー!」夢はグっと親指を立てた。

「お待たせ、何話てんの?」

 肩を回しながらやってきた敏夫も長椅子に並んだ。

「明日太郎の家に出張買取に行こうって話」

「お前ら暇だな」

「暇じゃねえよ。仕事だ」

「そうよ。ただでさえ最近CDの買取減ってるんだから」

「気をつけろよ。ダメなヤツはちゃんと言わねえと、根こそぎ持ってかれちまうぞ」

「その辺は大丈夫、大事なのはもう除けてあるから」

「ていうか太郎ちゃん何枚くらい持ってるの?」

「二百枚くらいかな」

「じゃあ百枚くらい売ってけよ」

「いやその『じゃあ』の意味がわかんないよ」

「ダンボール二つくらいで足りるかな?」

「足りるよ。ていうか一箱でいいよ」

「おっ出てきた」

 スタジオから中年のおじさんが三人、談笑しながら出てきた。トランペットを持った口に髭を蓄えたダンディーな男は敏夫と知り合いなのか、ラッパを軽く挙げてこちらに合図した。僕らはそれぞれに煙草を揉み消した。

 

 それぞれが鳴らすテスト音やチューニング音がカオスとなって、スタジオ内に渦巻いている。

「もういいんじゃねえか」

敏夫がスネアを力いっぱい叩いてから言った。

「何からやる?」

「ちょっと待って」始めようとした僕を夢はピっと手を伸ばして止めた。

「太郎ちゃん今日で最後なんだよ。それも考えての選曲なんだから」

夢はポケットから紙切れを取り出し読み上げていった。

「チェリー、ロビンソン、渚、空も飛べるはず、楓の順でいきます」

「OK」

「ちょっと見して」

太郎は夢から紙を受け取って、頷きながら確認している。。

「OKだろ?適当にやろうぜ」

シンバルを叩きながら敏夫は言った。

「まぁよ。それじゃあ太郎さん、挨拶でも、一つ」

そう言って僕は太郎を見た。

「えっ、いやいいよ。早く始めよう」

「あっ、そういうの私、良くないと思うなあ。何か一言くらいあるでしょ」

 太郎は顎に手を当てて考えてから、照れ笑いながらマイクに向かってボソっと言った。

「ロックンロール」

「お前もっと声張れよ」

 僕が言うと、敏夫がスティックで不規則にカウントを取り始めた。

「ロックンロール!」

 敏夫が大声で叫びながら、体が怯むくらい思いっきりシンバルを叩いてからリズムを刻みだした。

「ロックンロール!!」

 悲鳴のように高い声で叫んでから、夢のキーボードがそのリズムに乗った。僕と太郎は顔を見合わせながら、二人のセッションを聴いていた。すると太郎の体は次第にリズムに揺れ始め、重たいベース音を、いつものように、一音ずつ、慎重にそのセッションに溶け込ませていった。そんな相変わらずな太郎を微笑ましく眺めてから、僕は組んでいた腕をほどき、ギターのボリュームを全開に回した。

「イエェェェェイ!ロックンロール!!」

 言った後に笑ってしまうほどのテンションで僕は叫んだ。力強いリズムに乗っかって、僕らはゲラゲラ笑いながら、太郎のしょぼくれた挨拶に爆音で応えた。

 

 敏夫がリズムを緩めたのを合図に、僕らはそれぞれの演奏をバラバラに止めていった。やがて敏夫の乾いたドラムだけがゆったり、坦々と響いた。

「そろそろやるか?」僕はマイクで言った。

「いいよ。チェリーからね」

太郎が指をネック上で「ブオン」とスライドさせた。

「OK、じゃあ…」

 敏夫はこちらを見ながら、力を抑えて叩いている。僕が視線をやって合図すると、スネアを連打してからバスドラを三回キックして、フっと一息ついてからスティックでカウントを入れる。

「ワン・ツー・スリー・フォー」

 

 辺りの空気が徐々に、懐かしさに包まれていく。それは僕が中学の頃のギターアレンジを、覚えてる限りそのままでやっていたせいもあった。弾けない所は簡単にして、細かい所は勢いでごまかすというような、いい加減なアレンジだ。別に深い意味は無く、ただ楽譜を見るのが面倒だったから記憶を辿ったというのが本音なのだが、演奏が進むにつれ、全員が原曲を忠実にカバーしようとしている感じがした。しかし普段より好き放題にアヴァンギャルドな演奏をしているせいもあり、そのどこかぎこちない演奏が、より中学の頃を彷彿とさせた。

 

 曲をほぼそのままカバーするのは、このバンドでは初めてではないだろうか。そんなことが、ふと頭を過ぎった。何せ全員が妙な趣向を持っているため、「この曲をやろう」と話しても必ず誰かが変てこなアレンジを加え、必ず誰かが「面白い!」とそのアレンジに乗っかるため、時には原曲が何だかわからないほど豹変した。しかし今回は違う。誰もはみ出そうとはしない。完コピには程遠いが、全員がきちんと演奏している。中学バンドの音とは明らかに違ったが、その演奏は否応無しに僕の心をくすぐった。目を閉じるとノスタルジックな感覚で胸が一杯になってしまい、僕は何度も口元に浮かび上がる笑みを、顔を下に向けて隠した。

 

 そんな懐かしい記憶に浸っていると、ふいに妙な感覚に襲われた。その瞬間手元が狂い、僕は音を外した。

何だ?

 すぐに演奏は立て直したが、その感覚は懐かしさに混ざり、次第に僕の頭を曇らせた。

何だ?

 しばらくその感覚に捕まってしまった。考えてみても分かりそうで、分からない。

何だっけ?

 ぼんやりとしたそれは、分からないもどかしさこそあったが、嫌な感じはしなかった。考えたところで分かりそうになかったので、僕は取り合えず、覚えているあの頃へ思いを馳せた。夏樹は元気だろうか、本田は茜ちゃんと仲良くやっているだろうか、あのバンドメンバーは今でも楽器をやっているのだろうか、……父さんはどうしているだろうか…。

 

 演奏中に色々思い出していたせいもあり、途中何度も音を外したが、いよいよ、このスピッツ・セッションもラストの“楓”を迎えた。ふっと浮かんだその雲はイライラを生む雷雲でも涙を誘う雨雲でも無かった。現れた瞬間戸惑ったが、その後は何てことなく、もどかしさもすぐに消えた。演奏は原曲のレールを外れることなく進行していく。それが余計に“楓”の曲調と相まって「お別れ」の色を強めた。僕は順調に唄い終え、最後の“お約束”として、ここぞとばかりに用意していたファズを勢いよく踏んだ。サイケデリックな歪みが立ち昇り辺りの空気は一変する……と思いきや、妙に今日の演奏にあったマイルドな歪みとなった。「あれ?」と拍子抜けしながら、辺りを見回した。すると全員がこちらを見ながらクスクスと笑っている。「今日はダメだ」空気の破壊に失敗した僕は、照れ笑いを浮かべながら、マイルドに歪んだギターを、エンディングに向け走らせた。

 

 「良かったよな」

敏夫が、お菓子の山からカールの袋を取りながら言った。

「うん。良い感じだった」

僕は固焼きポテトの袋を開けて床に置いた。

「たまにはこういうのも良いんじゃない?ねぇ?」

夢はチョコレートを摘みながら太郎の方を向いた。

「うん。良かったよ。本当、スピッツ最高だわ」

バリバリと食いながら太郎が言った。

「でも初めてじゃない?カオリンが変なこと思いつかなかったなんてさ」

「俺だけじゃないよ。皆が普通に演奏したのって初めてじゃない?」

「そうだ。夢だって人のこと言えないよ」

「私はいつだって思ったようにやってるだけよ」

「皆そうじゃない?」

「だからいっつもおかしくなんだよ。これからは、規律でも作るか?」

「敏さん、俺今日で最後」

「あっそうか、じゃあ…どうする?」

敏夫は僕を見ながらカールをほうばった

「えっ別にどうもしないよ」

「そうだよ。今まで通りでいいじゃない」

「まあな……それでいいか」

「でも実際太郎のベース無くなったら、物足りなくなるな」

「でしょう?」

「ベースなんてまたメン募すりゃ見つかるさ」

「おい」

「そうね。じゃあもう、今日書いて貼っとこうか」

「コラ!」

「じゃあ…そういうことらしいから、元気でな」

「あっもう絶対CD売らねえ」

「おいおい、お前はもう立派な大人だろう?俺たちの隠れたエールを察せないかい?」

「ああ…そう…、まあいいや。あっそういえばさ。俺敏さんがちゃんと叩いたの初めて聞いたかも…」

「ああ、私も」

「意外か?でもそうだなあ、俺も何だか今日初めてバンドらしい演奏をした気がするよ」敏夫の言葉に、全員が頷いた。その隙に、僕は夢が囲んでいるチョコをくすねた。

「あっ、ちょっと、欲しいなら言ってよ。そんな泥棒みたいに…」

 そんな夢の声に知らんぷりしていると、演奏中に現れた雲の正体がサっと脳裏を掠めた。

 

 あの妙な感覚は何だったのだろう。再び気になり始めた僕は、皆の話を聞きながら、掴み損ねた雲の正体を、どことなく探り始めた。モヤモヤするくせに、じんわりと胸が暖かくなるそれは、胸の奥を心地良くくすぐった。今日は皆が妙な意志の疎通を見せ、しっかりとした演奏だった。加えて演目がスピッツだったこともあり、懐かしさがあったことは否めないが、いま一つピンとこない。何だ?いよいよ本格的に気になった僕は、頭の中で『スピッツ』『今日の演奏』『中学の思い出』をグルグルとジャグリングした。

 

 ああ、分からん。頭がだんだんと混線してきた。

「なあ」「ねえ」「どう思う?」などの振りに相槌を打っている内に、どうでもよくなってきた。やはり今日の演奏が引っ張ってきた中学の頃の懐かしさなのだろう。そうだ、そうに決まってる。何だ、やっぱりそうだったのか。そもそもこの場で考え事をすること自体間違いだ。そう思い直し、パズルに違うピースを無理やりはめ込んだような歯痒さを残しながら、僕は頭のお手玉を止めて、おしゃべりの和に溶け込んでいった。

 

 「最後に太郎さん、締めの挨拶しろよ」敏夫がカールを太郎にぶつけた。

「だから、そういうの…」

ごまかそうとする太郎は黙って見ている僕らを見回してから、咳払いを一つして、落ちているカールを拾った。

「ええっと、何かさ、初めて皆のまともな演奏を聞けた気がするよ…」

カールを食べながら太郎は手を後ろについて天井を見上げた。

「多分一生忘れないわ。楽しかった……ありがとう」

顔を上に向けたままでそう言うと、しばらく動かなかった。

 

 「最後にもう一回やるか」

そう言って、しんみりとした空気を打ち破ったのは敏夫だった。

「何やる?」

「ん?まあ、適当に」

敏夫はドラムの方へ歩いていった。

「そうね。ほら太郎ちゃん。泣いてないで…」

夢が太郎の手を引いて、その泣きっ面を無理やり立たせた。

「じゃあ適当にやるか」

 僕が太郎に目をやると、ベースを肩に掛け、こちらに背を向け、アンプのつまみをいじり、音を確認してから太郎は何やらメロディーらしきものを弾きだした。そのフレーズには聞き覚えがあったが、曲名が思い浮かばなかった。

 

 ベース一本で、つんのめりながらも情感たっぷりに奏でていく太郎は、まるでジャコ・パストリアスのような格好良さが背中に滲んで見えた。僕らはただ黙ってその曲を聞いていた。

 

 「はい…」

弾き終えた太郎が気恥ずかしそうに、振り返った。

「何て曲だっけ?」

「ジャスト・フレンド」

「ああ、そうだ!チャーリー・パーカーだ」

「さすが!正解」

 僕はクイズに正解した喜びと、太郎のテクニックへの驚きが混在し、ただ呆然と頷いていた。

「いやーびっくりした。お前スゲーな」

敏夫は立ち上がって拍手した。それにつられて僕と夢も手を叩いた。

「ブラボー!」僕らは口々に叫んだ。

「よし!太郎の名演奏も聴いたことだし、最後にパーっとやるかあ!」

そう言って敏夫は少し叩いた力みながらリズムを刻んでいった。

「ロックンロール!」

 僕がマイクで叫ぶと太郎が吹っ切れたように「イエ――!」と気違いじみた雄たけびを上げた。夢は少し考える素振りを見せてからマーチ風に鍵盤でリズムを刻み始めた。やがて太郎と敏夫もそれに合わせ始めた。僕は入っていくタイミングを見ながら、このリズムに合うメロディーを考えていた。そして思いついたのは“星条旗よ永遠なれ”だった。そしていざリズムに乗っけてみると、それは驚くほどハマった。あのウッドストックのジミヘンのように、ハウリングノイズを撒き散らしながら、歪んだギターで弾くこのメロディーは、マーチ風のリズムも手伝って、力強く、がむしゃらに何かが前進していく感じが空気を震わせた。

 

 ベースを背負って太郎が僕の前を歩いていく。

「俺まだ仕事残ってるから、先行ってて」

敏夫はカウンターに戻り「じゃあね」と手を振った。

「ああ、ここともおさらばか」

太郎は壁や天井を見回しながら言った。

「太郎ちゃん、行くよ」

夢が太郎の背中をポンっと押した。

「じゃあな」

敏夫に手振って、名残惜しそうな太郎を先頭に僕らはミンガスを出た。

 

 「明日来るの?」別れ際に太郎が言った。

「ああ、わかんねぇわ。店忙しかったら無理だしな」

「私はカオリンと行かなきゃ…、重いダンボール運ばなきゃならないし…」

「えっそんなに持ってく気なの?」

「まぁさ、明日のことは分からねえって話しだ。どっちにせよ連絡するよ」

「じゃっカオリン、また明日ね」

「OK、じゃあ」

手を挙げて太郎は、先をテケテケ歩いていく夢の後を追った。

「あっ薫さん」太郎の声に僕は振り返った。

「またいつか、遊ぼうね」

「ん?ああ、おう!」

 

 二人と別れて、一人夜道を歩きながら、はっきりと分かったことがあった。このバンドに他のメンバーが見つかる可能性はない。ゼロだ。原因はいくつかある。まずライヴをやらない。この時点で訳が分からないこと受合いだ。説明しようにも誰も明確な答えは持っていない。曲だってまともでは無い。それぞれのオリジナルアレンジによって、作曲し直されてると言っても良いほどだ。そして何より、僕はこれから他の奴と新しくバンドを組むなんて想像できなかった。それはこのメンバーでのバンド活動が、僕にとって『音楽』を楽しめる最高の場であったと思うからだ。これ以上の出会いは恐らくない。

「あっ」僕は突如、あの時の雲の正体をがっちりと掴んだ。

「バンドは今日で終わったんだ」

そう思わず口をついた。

 懐かしかったのは中学の頃ではなく、このバンドの思い出のほうだ。そんな思い出の思い違いが違和感として頭が曇らせたのだ。太郎が居なくなったことでこのバンドは終わったのだ。

 立ち止まったまま足は動かなかった。あの三人はそれを察していたのだろうか。僕は街燈に点々とオレンジに染まる夜道を歩きながら、今日のおしゃべりをぼんやりと振り返った。

 このバンドは何だったんだろう。そんなことも考えてみたが、よく分からなかった。ただ楽しいからやっていただけだ。意味なんて無い…と思いながらも結論は腑に落ちないまま、僕はエフェクターケースを路上に置いて、真っ暗な夜空を見上げて煙草をくわえた。

「どうすっかな」

オレンジに光る街灯の下、つぶやきは煙となって夜の宙空を漂った。

 

 

 

 

 

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