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 「カオリンちょっと聴いてみて」夢が帰り支度をして階段から降りてきた。この間買ったサンプラーがよほど気に入ったのか、作曲活動に拍車が掛かってきた。

「もう六曲目じゃねぇか。ピッチ早ぇな」

「インスピレーションが湧いちゃって、あれもこれも…、色々できそうな気がするのよ。サンプラー面白いわ。広がるわね、可能性が!」

「今度はどんなの?」

「聴けばわかるよぉ」

「前作と同じような感じ?」

 ほとんどがグレイトフル・デッドをサンプリングしたアンビエントな音だった。作り手の好みの問題なのだろうが、聞き手としては、さすがにブライアン・イーノばかりじゃ飽きてくる。僕は渡されたMDを見ながら言った。

「アンビエントは嫌いじゃないけど、こればっかりってのもなぁ」

「えっ…」

 突然夢の表情が曇った。

「いやいや、悪いって訳じゃないよ。むしろ夢らしさ全開で良いと思うよ。でも…」

僕は次の言葉を考えながら、腕を組んだ。

「あっそうだ、リズム!リズム入れてみたら?」

「嫌よ。リズム入れたらジェリーの浮遊感が台無しになるじゃない」

「試してみろよ。浮遊感はどうなるか分からんけど、以外とクールになるよ」

「へぇ、そう…なの?ドラムっていうと敏さんのイメージが強いからかなぁ。どうしても、この音には合わない気がするのよね」

「あいつのは参考にならないよ。変だったからな」

「今頃どうしてるかねぇ」

「知るかよ。皿でも洗ってんじゃねぇ?」

 敏夫からは何の連絡も無かった。僕はそれが悔しかった。何度か電話を取ったが掛けようとする度に「連絡が来るまで俺からはしない」のような意思が胸中にすくすくと芽生えていった。

「そういえばカオリンも前はサンプラーとかリズムマシンとか結構色々使ってたじゃない?何でギターだけになったの?」

「ああ、何かねぇ、ゴチャゴチャしてるのが嫌になったんだよ。それに何たって重いんだよ。あれ全部運ぶの結構大変だったんだ」

「でも私あの頃のカオリンの音、今はカッコイイと思うよ。当時はね、正直『何やってんだろう』って思ってたけどさ。最近になってあの頃の音源聴き返したりしてるんだよね。結構参考になってるし」

「だろう?俺凄いから。その内その凄さギター一本で何とかするよ」

「あれは無理よ。ギター一本じゃ」

「そこをやるからカッコイイんじゃねぇか」

 そんな話をしていると電話が鳴った。じゃあまたね、と夢は帰っていった。

「はい、もしもし河林堂です」

「あっ、良かった、薫でしょ」

「えっはい…ん?母さん?」

「携帯に何回掛けても繋がらないから…今日バイトだったのね」

「えっうん、今バイト中だけど?」

「お父さんの心臓が止まったの、今すぐ来られない?」

えっ、僕の頭にモクモクと暗雲が立ちこめた。心臓が止まった?ってことは…

「えっ死んだの?」

「今はまた動き始めてくれて、何とか大丈夫だけど…」

母の声は小さく、弱々しかった。

「そう…でも今は…」

 代わりの人はいない。どうする…?その時、頭が突如フル回転した。

「ちょっと待って、すぐにこっちから掛けなおすから」

 僕は電話を切ると急いで店を出て通りを見回した。

いた!

「夢―!」

叫ぶと夢はビクッと立ち止まって振り返った。僕は駆け寄って事情を話した。

 

「ちょっ、大丈夫なの?」

カウンターに入りながら夢は心配そうに言った。

「分かんない。でも確かなのは父さんが三途の川を覗いたってことだ。じゃ悪いけど後よろしく」

「ちょっと待って」

「何?」

「今日一日はずっと看てるんでしょ?じゃあこれ」

夢はそばにあった“レコード・コレクターズ”と“ストレンジ・デイズ”を差し出した。

「何だこれ?」

「とにかく持ってきなって」

とにかく僕はその二冊の本受け取って、足早に店を後にした。

 

 駅に着くと携帯が鳴った。

「来れそうかい?」

「うん、今駅だよ。あっ連絡しなくてごめん」

「そう、じゃあ待ってるね。焦らないでいいからね。ゆっくりおいで。あっ、タクシー使いなさいよ」

 母はそう言って電話を切った。驚きによる明らかな疲れが母の声には漂っていた。

 立ち食いソバ屋に寄りかかり、汽車を待ちながら、ふと思った。僕はどこに連絡しようとしていたのか、発信は公衆電話からだった。携帯だって病院で繋がるはずもない。十一月の真っ黒な空を眺めながら、逸る想いに浮き足立たぬように気持ちを抑えた。その焦りを僕よりも先に母は察したのだろう。その慧眼に恐れ入りながら、吐いた溜め息は真っ白になって消えていった。

 

 「父は生きているのだろうか?」振子の狭間で僕は動揺していたが、それは心配とは明らかに違う感情だった。死期が近いことは薄々感じていたことじゃないか。今更そんな、大それた悲劇でもねぇだろ。そう気分を宥めるも、やはりどこか落ち着かない。これが家族が死ぬということなのだろうか。車窓を流れていく点々とする光を横目に、僕は座席に身を沈めた。

 

 苫小牧駅からタクシーで三、四十分走って病院に着くと、正面出入口は閉まっていた。中を覗くも真っ暗で人気は無い。どうやって入るんだ?考えながらウロウロ歩いていると、救急搬送のドアから光が漏れていた。何気なくノブをひねり引いてみると、扉は開いた。勝手に入っていいのかな?とも思ったがこちらは緊急事態だ。扉を引き開けて飛び入るように駆け込んだ。

「あっちょっと、あんた」

「ん?」

院内に入り込もうとした僕は直前で看守らしき人に呼び止められた。一応振り返ったが、勢いまかせに僕は言った。

「すいません。父が逝っちゃいそうなんすよ」

これで通れるだろう。そう思って僕は足を進めた。

「はい、はい!ちょっと止まって。お父さんの名前を教えてね。あとこれにあなたの名前書いて」

おいおい、一刻を争う緊急事態にそんな手続き踏ませるの?マジで?規則は規則なんだろうがその辺はさぁ…。と思いつつ僕はペンを取った。

 

 手続きを踏んだことで、若干頭が冷やされた。僕は三階までの階段をゆっくりと上った。病室に着くと父のベッドは空になっていた。一瞬「あっ」と思ったがすぐに看護師さんが向かいの個室に移ったと教えてくれた。

 

 「どうも」

小さい声で病室に入ると、母がパイプイスに座って父を見ていた。

「薫、仕事大丈夫だったの?」

「うん、代わってもらったから、それよりどうなの」

「今はまた回復してきたけど、一時は…ねぇ」

 人工呼吸器の管を口につっこまれ、機械付きの点滴をして、指に洗濯ばさみのようなものを付けている父の目は薄っすらと開いていて、ちらっと僕を見たが、明らかにこの間より元気は無かった。

「まぁ、お母さんも驚いたろうから、ちょっと休んできたら?仮眠室借りれるんでしょ?」

「うん、ありがとう。でももう少しいるよ」

母の小さな声は掠れていた。

「いや、二人いたって同じじゃん。夜通しで看るんだから、交代交代の方が良いよ」

「じゃあ、二、三時間交代でお願いしてもいいかい?」

母はそっと席を立った。

「あっお姉ちゃんは今日は忙しいみたいで来られないって」

 二、三歩進んで母は振り返った。

「あっそれとそこに食べ物買ってあるからお腹空いたら食べなさい」

出入り口で立ち止まって母は言った。

「あっもし眠たくなったら…」

「もうわかったよ。わかったから、早く行きなって」

そう言って母を仮眠室へ向かわせた。

「じゃあ頼むね」とささやいて母はやっと病室を出ていった。

 母を見送るとすぐに、僕は備え付けの洗面台に向かって立っていた。何故だかわからないが、涙が溢れてきた。父からはカーテンで遮られているため見えない。父にバレないように呼吸を整えてから、鏡に映る赤みがかった目をした顔をバシャバシャと洗った。ティッシュで拭き取りながら、カーテンから出てみると、父は目を閉じていた。

 室内には無機質な音がそれぞれのテンポで鳴っている。心電図がピッピピッと鳴るとガシューインと人工呼吸器が動く。ピピッピッ、ガシューイン、ピッピッピ…。

 パイプイスに座って父の手を握ったり、さすったり、叩いたりしていると、今まで目を閉じていた父が突然激しく咽始めた。すぐさまナースコールを押すと看護師さんが来て口の中からこの間見たときと同じように、ネバネバを取り出してくれた。

 父は涙目になりながら、看護師さんにアレ何?コレ何?とベッドの周囲にある機械について教えてもらう僕を苦しそうに見ていた。一通りの説明を終えると「何かありましたらまた呼んで下さい」と言い残し看護師さんは去っていった。頷いてはいたものの、詳しくはわからなかった。しかしまぁ、取り合えずは心電  図のランプが赤く点滅し始めたらナースコールを押すと…。僕はその一点のみを理解してベッドに座りながら、母が買っておいてくれた食料袋から早速プリンを取り出した。父は僕が来る少し前までは点滅しっぱなしだったらしい。

「気をつけねぇとな」

心電図の機械に目を向けながら、プリンを急いでかき込んだ。

 

 それから数回、咽たり、赤ランプが点滅したりしたが、その度に看護師さんがやってきて様々な処置をしてくれた。最初の方は勇んで挑んだ役目だったが、次第に飽きてきた僕は、この退屈を埋めるものを探した。

「あっ」

ふと夢が渡してくれた本を思い出した。

「ナイス」

その二冊を眺めながら、夢の機転に感謝した。

 

 ベッドに寝転がってミカンを頬張りながら本を読んでいると「あ…ああ…」と小さなうめき声がした。

「どうした?」

僕はベッドサイドから父の顔を覗き込んだ。

「あ……」

人工呼吸器を指差しながら父は僕に何かを訴えた。

「それは、人工呼吸器だよ」

そう言うと父は苦しそうな顔をしてガシューインという音と共に胸を膨らませた。指はまだ口に入っている管を指している。

「ビックリしたよ。てっきり逝っちまったかと思った」

「フー」と息を吐きながら、父はニヤリと震える唇を上釣らせた。やはり呼吸のテンポを自分で調節できないのは辛いのだろう。機械が“ガシューイン”と一定のテンポで呼吸運動を促すたび、父は顔を歪ませた。

「それ苦しそうだねぇ。外してもらえないのかなぁ。次に看護師さん来たら聞いてみよう」

父は小さく頷いてから、苦しそうに咳き込んだ。父の肩に手を当てて、僕は止むのを待った。

 

 僕は食料袋にあった赤い網からミカンを取り出して、パイプイスに座った。

「ビタミンCをね。補給しなくちゃさ。煙草吸うから、風邪ひいちまう」

ベッドサイドで皮をむきながら僕は言った。父は相変わらずの涙目で、時折顔を引きつらせながらそれを見ていた。

「もう十一月だし、空気乾燥してくるからね」

そう言いながらふと、胃に穴を開けてから父は水以外何も口にしていないのではないだろうかと思った。傍らでミカンをムシャムシャ食べながら僕はミカンを一欠け取って立ち上がった。

「お父さん、食うか?」

父が小さく頷いたので、僕は唇の端に開いている管の隙間からミカンを潰して汁を流し込んだ。

「味するかい?」

父はまたゆっくりと頷いた。僕は何だか嬉しくなった。そうか!味はわかるのか。他にも何かないだろうかと食料袋をガサゴソしてみたが適当なものは見当たらなかった。

「お父さん、ごめん、もう良さげなのないわ」

二つ目を搾っていると目を閉じている父から涙がスゥーっと流れた。それを見た僕の目頭が熱くなるのを感じて顔をそむけると、心電図の赤ランプが点滅していた。

 

 「あの、人工呼吸器は外せないのでしょうか?」

処置をし終えた看護師さんに僕は尋ねた。

「そうですねぇ。少なくとも今夜一杯は外せませんね」

「そうなんすかぁ。お父さん、ダメだってさ」

僕は振り返りながら父に言った。

「一応、明日先生が来たら聞いてみますね」

「あっお願いします。ありがとうございました」

看護師さんが去った後、僕は静かにパイプイスに腰を下ろした。

「あれ?ミカン、駄目だったかな?」

心電図のランプを確認してから父を見ると、管をくわえる唇をニヤリと上釣らせた。

 

 ベッド横の、備え付けの机には八つ分のミカンの皮が山になっている。ベッドにあぐらで座りながら僕は本を読んでいた。「これが無くなれば、また退屈に襲われる」そんな危機感から、普段なら絶対に飛ばしてしまうページまで、とにかく一字一句を噛み締めながら読んでいると声がした。

「薫」

囁くような声のほうへ顔を上げると、入り口に母が立っていた。

「あらぁ、随分ミカン食べたね」

皮の山を指差して、母は掠れ声で笑った。

「ん?ああ、あっ俺は夜型だからまだ大丈夫だよ」

僕はミカンの皮を捨てながら言った。

「でも少し横になるだけでも疲れとれるから、行っといで」

母はバッグから小説を出して、パイプイスに腰かけた。僕はその姿を見ながら少し考えた。

「そうかい?…じゃあ行ってくるかな」

本を鞄にしまって、父の顔を覗き込んだ。

「仮眠室行ってくるわ」

そう言うと父はゆっくりと瞬きした。

「ここ出て右行った突き当たりだから」

母の声を背中に受けながら僕は薄暗い廊下へ出た。

 

 仮眠室には誰も居なかった。布団とテレビと公衆電話がある。中々広いところだ。僕は大きめのソファーにどっかりと腰掛け煙草をくわえた。ふと、顔を横に向けると『患者様の健康管理の立場から院内禁煙とさせて頂きます』の張り紙がしてあった。

「あっそうなんだ」

僕は煙草をしまって、テレビを点けた。チャンネルを回すもこれといった番組は時間的にやっていない。

「夢に連絡しとくか」

携帯を取り出すと、入り口の方にまた張り紙が見えた。近づいてみると『携帯電話の使用は止めてください』と書かれている。

「おいおい、仮眠室、不自由だな」

携帯を鞄に投げ入れると、連絡する気が萎えていった。僕は“ストレンジ・デイズ”を取り出してまたソファーに沈んだ。母は朝から仕事で、疲れているはずだ。なるべく早く交代してやろう。そう思いながら僕はウトウトと文字を追った。

 

 「薫、薫」

誰かに呼ばれた気がして目が覚めた。

「んん…」

「起きたかい?薫」

ソファーに包まれながら、すっかり熟睡していた。

「あれ?姉ちゃん、いつ来たの?」

まぶしい光に目をグッと閉じながら僕は言った。

「今さっき。ごめんね、昨日来れなくて。」

「ああ、うん」

カーテンは開けられていて、空が青く輝いている。僕は時計へ目を向けた。八時を過ぎている。目覚ましもないこの場所でどうやって二、三時間で起きられようか。

「お父さんは?」

「うん、もう大分落ち着いたみたいよ。行ってごらん」

 寝ぼけ眼を擦りながら、僕は通り過ぎる看護師さんや患者さんに挨拶しながら病室までの明るい廊下を歩いた。

 

 病室に着くと母が看護師さんと話していた。

「どうも」と僕が言うと「おはよう」と母が返してきた。

「今日は泊まっていけるの?」

「いや大丈夫なら、俺はこれで帰るよ。今日もバイトあるし」

「だと思ったよ」母はそう言って笑った。

 

 「じゃあね、また来るよ」

顔を覗きながら言うと、父は涙目のまま、ゆっくりと瞬きした。

「それじゃ行くよ。また何かあったら連絡して」

「わかったよ。助かったわ。ありがとう」

 

 病院を出ると空は晴れ渡っていて、何とも清々しかった。僕は煙草を吸いながらタクシーを待った。煙が白さを一層際立たせて、空へ昇っていった。

 

 

 

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