Daisuke Ibi / NOISE DISTRACTION CREATIVE
7
月が雲に隠れた。初夏を告げる六月の心地良い風が吹く中、僕らは楽器を持ちながらブラブラと家路を辿った。
「何事かと思ったわよ。突然笑い出すから」
「最近妙に思い出すんだよ。それであの選曲でしょ。何だか可笑しくてさ」
「何だろうねぇ。やっぱ薫さん寂しいんじゃない?」
「そうだな。お前寂しがりっぽいもん」
敏夫は軽快に歩きながらスティックで僕を突いた。
「その思い出をオブジェにしやがって」
「何の話だ?覚えてねぇな」
「オブジェ?」煙草に火を点けて夢が言った。
「ああ、まぁとにかくだ、俺が言いたいのは、今は何だか懐かしい気分ってことだ。寂しいとは違う」
美雪のことは二人とも知っていたが面識はほとんど無かった。オブジェの説明には別れ話のいざこざがもれなくついてくるだろう。はぐらかしたい気持ちはわかる。そんな敏夫の心情を思いながら、僕は夜空に溜め息を溢した。
「カオリン、本当に寂しいの?」
「はぁ?」
「薫さん、背中が黄昏てるよ」
「だからぁ…もういいよ」
煙草を吸いながらケラケラ笑う敏夫の背中をエフェクターケースでドンっと小突いた。
「それじゃあね」
太郎は夢を送っていった。何たって深夜一時だ。女の一人歩きは危ない。ということで誰かを付けることにしようと提案したのは太郎だった。家は逆方向にも関わらず太郎はこの役目を決して譲らなかった。
「あいつ夢に言ったのかなぁ」
ポケットをガサゴソしながら敏夫が言った。
「夢からは“言われた”気配は感じなかったけどな」
「いや夢はさ…ほら、上手そうじゃん。そういうの」
「でもまったく普通じゃなかった?あれでもし言ってたら、太郎今キツイだろうな」
「まぁそれはそれでさ…、良いじゃねぇの。悪い、煙草切らしたみたいだから先行って」
「おう、じゃあな」
敏夫は来た道を引き返していった。アパートはもうすぐだった。傍の公園の横を通り過ぎようとするとブランコに人影がブラブラしているのが見えた。
「あれ?」
僕は足を止めて、街灯で影になっている姿に目を留めた。やがてその影もこちらに気づき顔を合わせると、握っていた鎖を放し、力なくトボトボと幽霊のように近づいてきた。僕の目にはまだ違和感のある黒髪ショートヘアーの美雪だった。
「コエェよ」
「そりゃ怖くもなるわよ」
「何やってんだ。こんな夜中に」
「別に…」
「ああ…そう」
明かなヘコみ様に、事情を知っていたせいもあって目をまともに見れなかった。僕はゆっくりと手を伸ばして肩をそっと二回ポンポンと叩いた。
「まぁ、立ち話もなんだし、取り合えず家来るかい?」
そう言うと美雪は返事もせずにアパートの方へ颯爽と歩き出した。その後ろをギターを肩にかけて、エフェクターケースをぶら下げながら、僕はヨタヨタと続いた。
美雪は椅子に腰かけた。僕は自分の定位置を取られながらも、荷物を下ろしてベッドに座ったまましばらく沈黙を挟んだ。
「あ、あぁ…今ね。皆で音合わせしてたんだ」
「敏夫は?」
「さっき煙草買いに行った」
「そう、でも薫で良かった。次顔見たら殺してるかもしれないから」
「殺すとか言うなよ。おっかないなぁ」
「あれはヒドイ。死罪よ」
「あいつなりに考えた末だと思うよ」
「考えた末?何て言われたと思う?“俺帰るから、別れてくれ”だけよ。朝方に、しかも留守電に入ってたのよ。それで理由聞こうと思って電話しても“そういうことだから”って言われて切られるし。三年も付き合っててこんなの無いでしょ。もう訳分かんなくて…」
僕は口をポカンと開けたまま言葉を失った。あいつの言ってたケジメってのはこんな一方的なものだったのか。しばらくそのままあきれていたが、あまりに沈黙が続くと美雪が泣いてしまうのではないかと思い、何か話題を探した。
「で、その髪…どうしたの?」
「最初は自分で切ったわよ。私さ、イライラしたら美容院に行くの。結構スッキリするのよ。でもあの時は何かもう気づいたらハサミ入れてたわ。でもどう?結構似合ってるでしょ」
「ああうん、良いと思うよ。色も変わったよね」
「それは無意識なのよ。いつ染めたか覚えてないの。気づいたら黒になっててビックリみたいな。でもほら、薫は知ってると思うけど、私ってショックを受けると突拍子もない事しちゃうのよ。だから今回も驚いたわ」
「今は?大丈夫なの?」
「あいつの顔見なければね」
「それは何だろうね?脳の何かかねぇ」
「生まれつきなのよ。そういう性格なの」
そっかぁ、と頷きながらまた舞い降りた静けさに僕は戸惑った。美雪は机にあった僕の煙草を吸い始めた。
「あっ、コーヒー飲む?」
「うん」
僕はお湯を沸かしに台所へ向かうと、美雪は煙草を燻らせながらCD棚の前に座り込んだ。
「これ聴いていい?」
ヤカンをコンロにかけて台所でバタバタしている僕に、美雪は何かのCDケースをこちらに振っている。
「適当に聴いてていいよ」
カップを用意してコーヒーの粉を入れた。スピーカーから聴こえてきたのはニルヴァーナの“スメルズ・ライク・ティーン・スピリッツ”だった。
「おお、懐かしい!」思わず僕は振り返った。
「これさ。私中学の時よく聴いてたんだぁ。やっぱカッコイイね」
「俺も聴きまくってたなぁ。中三の頃だ…」
ヤカンがポッポッと湯気を吹いた。
「中学でニルヴァーナ聴いてる奴って他にいた?」
湯気の上がるカップをそっと美雪に渡した。
「知らない。私、中学の時友達いなかったから」
「マジで?いやさ、最近やたらと思い出すんだよ。中学の頃」
「へぇ、私は中学ってずっと保健室にいたなぁ」
「俺は結構楽しかったよ」
「ふ~ん、どんな感じだったの?」
美雪はCD棚の前でしゃがんでコーヒーをすすりながら言った。「どんな感じ…」僕はベットに腰かけてカップを両手で握り、どこを話せばいいのかを考えた。
「どんな感じかなぁ……、例えば夏休みの宿題にさ、読書感想文ってあったの覚えてる?」
「あったねぇ。懐かしい響きだわ」
ニルヴァーナの“カム・アズ・ユー・アー”のイントロが鳴り出した。ちょうどこのフレーズを弾けるようになって舞い上がっていた頃だ。
受験生のプレッシャーなど何処へやら、それまでの夏休みと同じノリで僕は遊びほうけていた。当然のように宿題もそのノリで、すっぽかしていた。そんな訳で夏休み最終日は当然、頭を抱えることになる。不良ではなかったから「宿題?やってねぇよ」などと先生に向かって白を切る勇気はない。だから連絡網を片手に電話をフル活用して、やれるだけはやった。そして最後に残った最大の難所が「読書感想文」だった。原稿用紙を前にした頃、時計は午後十一時を回っていた。つまり数時間後には学校にて級友との再会が待っている。部屋を見渡すも感想文を書くような本がない。悩んだ末に僕は屋根裏部屋の存在を思い出した。「確か本棚があったはず…」僕は本を求めて、普段は物置となっている屋根裏に向かった。
クモの巣の張った棚に並ぶ本達は光明を放っていた。「良かったぁ…」と安心するのもつかの間、僕はすぐに背表紙に目を滑らせた。そこには父や母が昔読んだらしき本がたくさん眠っていたが、選んでいる余裕など無い。サッと見て動物園の現状らしき本に目を留めパラパラと中を覗いた。「動物園なら行った事あるし…」すぐさま本を小脇に抱えて机へ戻った。早く仕上げねばという焦りに「面倒くせぇ」「眠い」という邪念が加わって、目は文字の上を滑るばかりで内容を掴めない。原稿用紙は未だ真っ白だ。時間に追われ、もはや本を読むことはあきらめ、表紙の図柄や所々のページに載っている写真から感想を書こうと目を擦ったが、秒針の音に徐々に追い詰められた僕はとうとう「もういいや」とペンを投げた。そんな時だ。“あとがき”なる文章に気がついた。最初の一行を読んだだけで直感が走った。
「これはいける」
翌日提出された読書感想文はこうして完成した。その日の友達との談笑の中で僕は何の気なしにこのエピソードを話した。するとその場に居た七人の内、五人が“あとがき”を使ったと笑って名乗り出た。
「“あとがき”は基本だよな」誰かが言ったその言葉に初犯であったにも関わらず、僕はまるで常習犯のように振舞った。
「“あとがき”ねぇ」
美雪は膝を抱えてニルヴァーナのリズムに体を揺らしている。
「皆やってるなんて知らなくてさ。聞いてみて結構ビックリしたよ」
「私は…どうだったかなぁ、もう覚えてないわ」
「そんなもんさ、まぁもうちょっと続くんだ。この話」
「ふ~ん」
横に置いてあったカップを取って美雪は僕の方へ顔を向けた。
ある日の帰りの会。先生は眉間にしわを寄せ、不機嫌そうな顔をしながら僕らの名前を静かに呼んだ。
「佐伯、本田立て」
緊張を孕んだ空気の中、僕らは顔を見合わせながらゆっくり椅子を引いた。
「夏休みの宿題だった読書感想文…、覚えてるよな」
えっ?胸が一つドクンと鳴り、僕は固唾を飲んで次の言葉に備えた。
「それでなぁ、市のコンクールってのがあるそうなんだが、この二人のお兄ちゃんが学校の代表に選ばれたぞ」
この上ない驚きが沸きだす拍手の中、心臓を直撃した。僕はすぐさま本田へ目をやった。すると、あのバカ!ちょっと照れながら笑っていやがる。本田は“あとがきは基本”を推奨する僕らのグループで、あの談笑の時名乗り出た一人だった。もちろん夏休み中も毎日のように一緒にスタジオに入り浸っていた。つまり本校は、そろいも揃って“あとがき”を提出した文才も感性もへったくれもないバカを代表に選んだ訳だ。クラスの喧騒の中、一人青ざめる僕をよそに、先生は続けた。
「よって、文化会館でだなぁ…、あれ?いつだったっけか、まぁ発表会があるんだが、それに行ってもらうことになりました」
それはすでに決定されていた。「ヤバイ絶対に怒られる」僕の中の驚きは微かに恐怖を滲ませたがパチパチと鳴る拍手や「がんばれー」などという“あとがき”推奨委員会の野次のおかげで多少の照れ笑いを取り繕いながら、その場を凌いだ。
眠たそうに目を閉じて、美雪は膝を抱えたまま揺り籠のようになっている。予想はしていた。今の美雪にとって他人の思い出話など大して面白いものでもないだろう。しかし何故だか、誰かに聞いてもらいたかった。僕は椅子に腰かけて、煙草に火を点け、机に転がっているピックアップを手に取った。
「あぁ、ごめんね。最近あまり眠れないのよ。久々に睡魔がやってきたわ。それで?」
「いや、もういいよ。寝ればいいじゃん」
「そう?じゃあそうする…かな」
眠たそうな掠れ声でそう言うと薄目のままベッドへ潜り込んでいった。ガサゴソと布団を被る美雪を背に、僕は机に肘を立てながら、あのオブジェのピックアップを指で遊ばせてから、目線の高さでゆっくりと回した。
「でも、何で突然思い出したの?」
美雪は寝返りを打ちながらボソッと呟いた。
「さぁな…、でもやっぱり、寂しいのかな?」
返事は無く、ただ布団の音だけがガサガサと聞こえた。僕は鼻で“サムシング・イン・ザ・ウェイ”をなぞり歌いながら煙草を取った。
机の上を携帯がガタガタと歩いた。ギターを抱えながら音量を絞ってスピッツを聴いていた僕は、慌ててそれを取り押さえた。敏夫からだった。
「あっもしもし、今夢ん家に居んだけど、お前も来ない?太郎も居るぞ」
「何やってんだよ…、いや…今は戻って来ないほうがいいか…」
「あ?何言ってんだ?」
「今な、美雪が来てんだよ」
ギターを立て掛けて、クークーと寝ている美雪へチラリと目を向けた。
「は?えっ、何で?」
「帰り道で会ってさ。それよりお前、殺されるかもよ」
「何か聞いたか?」
「ああ、大筋は」
「仕方ねぇんだよ。他に、別れ方が思いつかなかったんだよ」
「にしてもだ。あれじゃあ誰だって美雪の肩持つぞ」
「俺だって考えたさ。その結果、お互い無かった事にするのが一番良いと思ったんだよ」
「三年付き合ってて、突然無かったことにはならねぇだろ。まぁ、また今度話そうや。とにかく今は行けねぇよ」
「…そうか、じゃあ…な」
僕が電話を切りかけると「あっちょっと」と声が漏れてきた。
「太郎は夢に言ってたぞ。でも夢は断ったってさ」
「お前余裕だな。状況わかってるか?他人の恋に盛り上がってる場合かよ。どっちかっていうと、今、渦中の人はお前だよ」
あきれた僕は諭すように、ゆっくりと話した。
「いや…、気になってんじゃないかと思ってさ」
「確かに気にはなってたけどさ…、じゃあ、そっちは宜しくな」
「お前こそ、悪いな。宜しく頼むわ」
電話を置いて美雪を見ると、顔は半笑いだった。楽しい夢でも見てるのだろう。僕はすっかり冷めたコーヒーを飲みながら、ふと目に付いたカーテンの下から漏れている朝方の青白い光が気になった。カーテンをめくり、曇りガラスを少し引いて外を覗くと、小雨がシトシト地面を打っていた。
「あっそうだ、雨だったなぁ」
頭で一時停止していた記憶は、その雨音に誘われるように再生し始めた。
雨の日曜日、文化会館の前に僕は制服で立っていた。断ったのだが、先生が車で送ってくれた。隣の本田は車中で繰り広げられた先生との心理戦のような会話で疲れたのか無表情だ。雨粒が傘を次々と滑り落ちていく。
「おい、大丈夫か?」
「ん?ああ」
ここにきてようやく事の大きさに気づいたのか、本田は表情のないまま、力なく返してきた。
「さあ、お前ら、何やってんだ。入っていいんだぞ」
車を止めてきた先生が後ろから僕らの背中を押した。傘を入り口の傘立てに置いて、何ともノらない気分で自動ドアをくぐった。
リハーサルを兼ねた簡単な説明の後、一時間の休憩があった。もちろん他校の生徒もたくさんいたが、さすが読書感想文コンクール。先生方の見張りはなかった。こういう場に集まる連中でもめる奴などいないと踏んだのだろう。僕らはロビーのソファーに座り、他校の女の子が通り過ぎる度、目を奪われながら「あの娘カワイイ」「いや、俺は前の娘の方がいい」などという会話を楽しんでいた。しかし楽しむという次元を超えた事が起きた。
本田が首を上に傾けたまま固まった。その視線を辿ると一人の女の子がいる。しばらく放っておいたが、すぐに僕は退屈してしまった。「おい!」の一言で本田は、ようやくこちらの世界に帰還した。
「なぁ、上のあの娘、ヤバくねぇ?」
本田はソワソワとしていた。上をチラッと見てみてみたが背中しか見えない。僕は暫く黙っていたが、この場、この状況で生まれた「恋」を面白半分にからかってみたくなった。良い土産話になると思ったし、とりわけ恋話は盛り上がることうけあいだ。
「よしっ、じゃあ…、行ってみっか」
「はぁ?…、何て…話しかける?」
瞬きを二回した後、不意打ちを喰らったような顔はそう切り替えしてきた。「掛かったな」と確かな手ごたえを得て、僕は本心がバレないように真顔で話した。
「何話すかなんて関係ねぇって、そんなもん決めてから行っても、変に堅くなるだけだぞ。それに…」
上にいる女の子の背中を確認してから僕は続けた。
「それに、早くしないと、どっか行っちまうぞ」
「そう…、だよな。よし行くか」
席を立った僕は、妙な緊張感に今にも吹きだしそうだった。『“あとがき”ズッコケ恋物語』という、皆に話すときのタイトルを思い浮かべながら、僕は笑いを何度も呑み込んだ。
階段を上がっている途中「なぁ、やっぱりお前が話しかけてくんない?」と本田は小声で言った。「OK、いいよ」と僕は軽く受けた。とにかくあの娘がいなくなっては、この話は始まらないのだ。一刻も早くこいつを恋の花園へ送らねばならない。頭はそれで一杯だった。
本田の天使は、階段の傍にある二階ロビーのソファで羽根を休めていた。周囲の席にはまばらに数人が座っていたが、天使は一人でこちらに猫背を向けて、雨粒がバチバチと打ちつけるガラスから外の風景をじっと見ている。二階の入口前にある受付に、どっかの学校の先生だと思われるおじいちゃんが置物のように座っている。本田は肩で僕の背中をそっと小突いた。
「あ、あのぉ…」
ドキドキしながら、そっと話しかけると、その娘は猫背をビクっとさせ僕を見上げた。
「はっ、ハイ?」
突然話しかけられた驚きでか、天使の声は上つった。そんな天使の顔を見て思った。「確かに、これはヤバいわ」カワイイと一目見て思った。可愛いラクダのような顔をしていた。腰を曲げたままで固まっている僕を、天使は怪しげに見ていた。「こんな娘が彼女だったら毎日はどんなに幸せだろう」という妄想が頭いっぱいに広がりかけたが、本田の視線を横っ面に感じ、それは萎んだ。何より、恋話は他人事じゃなけりゃ笑えない。
「あっいえ、せっかく他校生が集まっているから……、その…、こういう所に来るのって初めてでどういう人が来てるのかなぁって思って…」
思えば安請け合いをしたものだとつくづく思った。自分が生来の口下手であることなど、妙な勢いですっかり振り落としてしまっていた。しかし、奇跡的に天使が会話を繋いでくれた。
「どこの学校から来たんですか?」
「弥生です。ヤッチュウ」
「ヤヨイ?すいません。初めて聞きます」
知らない中学を聞いた天使の目には最早、僕は宇宙人に等しく映っている気がした。
「いやいや、知らなくて当然ですよ。各学年60人位しかいないところですし、何か有名になる部活もないですから…、あっ、どこの学校から…」
「東中です」
「ああ、トンチュウですね。東ってこの近くですよね」
「はい、すぐそこにありますよ」
そうですかぁ…、と言ったきり会話は止まってしまった。天使はまた目線を外に向けた。僕は「そっかぁ…」と言いながら天使に背を向け、一緒に外を見回し、東中を探すふりをしながら次の話題を求めて、必死に脳内を検索した。
「あの」
「はい?」
「座って話しませんか?」
「えっ、ああ」
この状況からどうやって本田へ繋げばいいのやら、まったく検討もつかなかったが、取り合えず会話を止めては駄目だ。話していれば時は、きっと来る。そう信じながら、僕は天使の隣に腰掛けた。
「あっ、僕は佐伯といいます。佐伯薫です」
「佐藤茜と言います。私も初めてなんですよ。読書感想文が選ばれたのって」
「あっ、そうなんすか。僕はもうすでに緊張してますよ」
「私もさっきからガチガチですよ。因みにどんな本を読んだの?…ですか?」
僕らは顔を見合わせた。
「敬語、やめましょうか。同い年…、あれ?中三ですよね」
「はい、そうですね。やめましょうか」
佐藤さんはそう言って照れくさそうに笑った。そのキュートな、はにかみに、佐藤さんの僕に対する懐疑心が少し和らいだ気がした。
「一応動物園のことを書いた本なんだけど…、実は…」
おっと!口が滑るところだった。いくらなんでもここで、佐藤さんにバラすのはバカだ。しかし「実は?」と佐藤さんは無邪気な顔で小さなクエスチョン・マークをにょろりと頭上から出している。
「あっいや、実は本てあまり読んだことなくてね。実は本より音楽が好きなん…だよ」
「音楽!私ミスチルが好きなの!」
「そうなんだ!俺は“クロス・ロード”が好きだな」
「私はね、“オーバー”って曲」
「へぇ~、ごめん、その曲知らないけど、アルバムの曲?」
「うん、『アトミック・ハート』の最後の曲」
今度聴いてみるよ、興味の共通点を見つけ、楽しくなる気配がしてきた。音楽は僕の得意分野だ。何の話をしよう。そんなことを考えていると「何やってんの?」と背後から声がした。本田の事などすっかり忘れていた僕は、本気で驚いた。そうだった。目的はこうじゃないじゃないか。僕はちょっぴり悔しい思いを残しながら、本田の紹介へと頭を回した。
「お前どこ行ってたの?」
「いや、ちょっとね」
本田は佐藤さんに会釈してから、こちらは?のような仕草をとった。
「こちらは東中の佐藤茜さん。あっ、こいつは同じ学校の本田って奴です」
こんにちは、と互いに挨拶を交わし、本田は僕の隣に座った。
「ミスチルが好きなんだって、お前…」
「じゃあスピッツとかも好き?」
「スピッツも良いですよね」
バンドで合わせる曲の大半はスピッツだった。それはメンバー全員の共通する好きなバンドだったからだ。その他はメチャクチャなセッションをやっていた。
「でもこの間スタジオで“クロス・ロード”合わせたよな」
本田は楽器をやっている事を静かに仄めかした。
「バンドやってるの?」
佐藤さんは見事に食いついた。確かに中学でバンドをやっている奴はこの街では珍しかったかもしれない。
「僕はベースやってます。こいつはギター」
本田は平常心を装っていたがミエミエの誇らしさが、まだ出来ない指弾きでの仕草に現れている。
「じゃあ、ライヴとかもやってるの?」
「いやいや、そこまでは……」
「でも高校行ったらやろうって話してます」
そう言って本田は、僕の声を退けた。
「本田君はどんな本を読んだの?」
佐藤さんは僕らにとってのキラー・クエスチョンを本田に投げかけた。
「水族館の昔と現状を書いた本です。佐藤さんは、どういう本を読んだの?」
本田は都合の悪い質問の進路を見事に変えて窮地を抜けた。
「私は『かぎりなくやさしい花々』っていう身体障害者が書いた絵と詩の本です」
へぇ~。僕らは声を合わせて感心した。「知ってる?」「いや…」僕はそう首を横に振った。
ふと父の姿が頭をよぎった。
父が脊髄小脳変性症という病気になって十年が経っていた。もう歩けないし、ほとんど話すこともできなくなっていた。今は施設に入っているが、そんな身近に身体障害者がいるにも関わらず、僕はまったく無関心だった。いや、無関心というより、あまりに身近すぎて、そこに違和感を感じなくなっていた。難病らしいが一緒に暮らしていても僕にはコレといった問題は無かった。時には父がわがままに見えて、それに応える母を見ながら「王様かよ」と思うこともあった。まだ口が回った頃は、よく銀行員を家に呼んではああでもない、こうでもないと怒鳴りながら何やら難しい金の話をしていた。
年々、父が弱っていく事には気づいていたが、目に見える変化は植物の成長のように、いつだって緩やかだった。
佐藤さんの読んだ『かぎりなくやさしい花々』は知っていた。その花々の絵が家のカレンダーだったからだ。本田は席を佐藤さんの隣に移動して、その作者の星野富弘について色々と聞いている。
「ちょっとトイレいってくる」
二人の会話が弾みだしたのがわかり、僕のキューピット役は用済み感が滲みだしてきた。
「おう、いってらっしゃい。それで…」
そんな投げ遣りな本田の態度は僕の中で明日の“吊るし上げ”を決定した。「この勢いがあれば大丈夫だ、絶対面白いほうに転がる」という確信を抱きながら、佐藤さんに会釈して席を立った。
父の事をぼんやりと思い浮かべながら、階段を下りる前にもう一度佐藤さんを振り返った。すると、楽しそうな佐藤さんの笑顔が目に焼きついてしまった。「ヤベェ」僕はギュっと目をキツク閉じた後、何度か強く瞬きをしながらトイレへ向かった。