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 雨上がりの公園に人影はなく、水の溜まった砂場は泥沼と化していた。僕は足を止めアパートを振り返った。他人の厄介ごとは当たり前におもしろいが、狐の気持ちもわからなくはないせいか胸は高鳴らなかった。狐はきっと僕と同じ気持ちなのだと、そう思った。だが、同じ別れとはいえ恋人と友人ではショックの度合いは恋人に軍配が上がるだろう。僕は砂場の泥沼にもう一度目を落としてから歩き始めた。

 

 昨夜、敏夫はいつものように遊びに来た。バイトを終え部屋に着いたのはだいたい夜中の十二時頃だ。バイトが終わってからどちらかが部屋へ尋ねていくのはここ二年位続いている僕らの日課みたいなものだった。ショルダーバックをベッドに放り、椅子に腰かけ煙草を吸いながらテレビのスイッチを入れようとすると、ピンポーンの呼び鈴の後すぐにドアを数回ノックして「開けてくれー」と声がした。僕は煙草を灰皿に置いた。

「おーい、いるだろ。早く開けろー」

「夜中だぞ、大声出すな」

 ドアを開けると顔を赤くした敏夫がビールの六缶パックを持って「おう」と掠れ声で言った。様子の違いは明らかだった。酔って来ることなど今までなかったし、僕が酒を飲めないことは知っているはずだからだ。その僕の表情を察してか、ふっと笑って「まぁ詳しくは中で」とズカズカと上がりこんだ。足元はしっかりしている。

 

 「珍しいな、酒か」

「やっぱさ…帰るわ」

ベッドに座りビールのパックをバリバリ破きながら敏夫は呟いた。

「はぁ?忘れもんか?ツマミならたこ焼きがあるぞ、食う?」

「ああ?違う…けどたこ焼きは食う。冷凍?」

「そう。まぁコレ吸ったら作るよ」

僕は煙を深々と肺に送り、ゆっくりと疲れを吐き出した。

「ハイ」

僕にビールを手渡すと敏夫はグビグビと飲み始めた。

「俺は酒駄目なんだよ」

「知ってるよ。でも缶ビール一本くらい大丈夫だろ」

「大丈夫とかじゃない。嫌いなんだよ。酒と紫蘇は。味がね」

「あ~ハイハイ、そういうのいいから。じゃあ空気だ。雰囲気作りの為に飲んでくれ」

とにかく缶を開けると乾杯と言わんばかりに無言で缶をスッと掲げた。「おう」と僕も缶を小さく掲げズズッと啜った。

「で、何の雰囲気作りなんだ」

「美味いだろ」

「えっ、苦味しか伝わってこないけど」

「ビールくらい美味いって思えなけりゃこの先楽しめねぇぞ」

「酒が飲めなきゃつまんない世の中なんてクソだ」

煙草をもみ消しながらビールをもう一口啜った。

「言いたくないのか?」

「まぁ、もうちょっと空気が出来てから」

「空気だ、雰囲気だって、お前は告白直前の中学生か」

「たこ焼きは?」

何なんだよ。そう気になりながらも冷凍たこ焼きをレンジの皿に円状に並べた。レンジのスイッチを入れる頃には敏夫は二缶目を飲み始めた。僕は椅子に戻り二本目の煙草に火を点けた。

「今日は何か良いの入ってきた?」

「買取は二件だったけど地下からダンボール二箱分くらいレコード出したよ」

「ジャズ?」

「いや、色々。ごちゃ混ぜ」

「面白そうなのあった?」

「まぁ何枚かは…あっそういや久々にラモーンズ聴いたよ。やっぱカッコイイわ」

「おお、やっぱパンクはニューヨーク産だよな。あれ?持ってなかったっけ?」

「聴く?確かアレに入ってたはず…」

煙と一緒にそう吐いてCD棚の前にしゃがみ込み『PUNK』を取り出して早速プレイヤーに入れた。

『アイ!ホー!レッツゴー!』

スピーカーから長身のジョーイ・ラモーンが叫んだ。

「いいね。やっぱこうスカッとするね」

「お…うん、いい…な」

もう敏夫の気分を窺うことに嫌気がさしてしまった僕は、その内話すだろうと高を括りその反応を無視した。

「そういやCD増えたよなぁ。今何枚くらい?」

「う~ん、数えた事ないからなぁ。三千くらいかな?」

「狂ってるな」

「バカ、信じんなよ。そんなにあるかよ。まぁせいぜい五百ってとこじゃない?」

「それでも怖ぇな」

「いいじゃん。金の使いどころってココしか知らねぇんだよ」

「ますます怖ぇよ」

ほっとけよ。僕はCD棚の前にペタンと座り込み、CDの壁を眺めた。不思議なものでこうしていると気持ちが落ち着いた。誰に何を言われようがどうでもいい。机から煙草を取ってラモーンズに体を揺らしながら、くわえた煙草に火を点けた。

「そういやさ」

敏夫も煙草をくわえながら灰皿を机から下ろし、僕と自分の間に置きながら言った。

「昨日スタジオに太郎来たよ」

「へぇ、一人で?珍しいな」

「でも肝心のベース持って来なくてさ」

「何しに行ったんだ。じゃあレンタル?」

「そう。でさ、そん時ちょっと一緒に入ったんだけどさ、あいつ上手くなったよな」

「まぁ俺とお前がメチャクチャ過ぎんだけどね」

「俺はちゃんと叩いてんだろ。メチャクチャはお前だけだ」

「あれで“ちゃんと”は乱暴だろう」

そう言うと、敏夫は笑いながら煙草を灰皿でポンっと叩いた。

「でもさ、みんな成長していくな」

「そりゃあ三年も経ちゃあ上手くもなるさ」

成長?何言ってんだ?と思いながら話とラモーンズを半々で聴いていた。僕は適当な合槌を打って話を流しながら、敏夫が“何か”を言い出すのを待った。

 

 煙が部屋中に籠もりはじめた。敏夫は顔を真っ赤にしながらバイト先のスタジオの話をしていた。ビールも四本目に差し掛かり、テンションがおかしくなってきたのかそんな普通な話も敏夫は楽しそうに話していたが、今の僕にはどうでもよかった。“何か”を待っていた僕はあまりに核心に触れないその内容に次第に苛立ってきた。そこで合槌からカウンターでこっちから切り出そうとタイミングを窺った。次の沈黙で、次の合間で、次こそ…よし…いや、次だ。そんな風にチャンスを逃していくたびに少しづつ不安が募ってきた。ひょっとすると聞かない方がいいのではないだろうか…。そんな気持ちに苛まれ始め、いつの間にかチャンスを逃すのではなく、潰す側に僕は回っていた。『PUNK』というノリの良いベスト盤を流しながら、ひたすらしんみりしそうな会話の方向を捻じ曲げた。ビールは僕の缶にはまだ半分くらい残っていたが、敏夫は四缶目を飲み干すところだった。

「凄ぇな。飲むね」

「お前が弱すぎんだよ」

 スーサイドの“チェリー”が流れ始めた。勢いのある選曲のなかにあってこれは異質だった。キラキラとしたトラックにアラン・ヴェガの囁くようなヴォーカルが何ともクールだ。

「俺さ、帰ろうと思ってんだ」

ん?すっかり聴き入っていた僕は見事に油断を突かれた。

「帰るって、地元に?」

「友達がさ、洋食屋で働いててさ、四月に帰ったときにチラっと寄ったんだよ。そしたら

何かいい感じだったんだよ」

 洋食屋?僕はビールをグっと飲んだ。

「えっ、そこで働くの?」

「ああ、店長さんにも会ってさ、ちょっと話したらもう一人くらい雇うつもりらしくてな」

「へぇ、良かったじゃん。地元ってことは親も喜ぶんじゃない?」

ああ…良かった。缶をぶら下げ寂しげに俯いた敏夫に、僕は煙を吐きかけた。

「その店ではウェイター?」

ゲホゲホとする敏夫に僕は椅子に座りながら聞いた。

「シェフドランだったかな?まぁウェイターみたいなもんだろ」

「シェフ…なんだって?」

「まだ俺も正確にはわかんねぇ」

「そっかぁ。でももう決めたんでしょ?帰るって」

「決めた」

赤くなった顔で敏夫は言い切った。

「で、いつ帰るの?」

「十月くらいにしようかなって思ってる」

カレンダーに目をやる。後四ヶ月くらいだ。

「俺も二十五になるしさ。そろそろ定職についた方がいいかなぁって思ってたんだ。そんな時に…」と上を向いて敏夫は止まった。

「渡りに船?」

そう!ピシャっと膝を叩き、僕を指差して頷きながら敏夫は煙草をくわえた。

「薫は今二十二?三?」

「まぁ、そんくらい」

「まだ大丈夫だな。でもお前もさ、適当な所で何か見つけろよ。あれ地元どこだっけ?」

「苫小牧」

「だろ?結構近いじゃん。それに、あれ?確かおやじさん病気だって言ってなかったか?早いとこ安心させてやれよ」

 赤い顔の酔っ払いは煙を吐きながら、半分閉じかけた目で僕に絡んだ。

「そうだな…そうだけど、そりゃ、余計なお世話だわ」

 そう言って僕はビールをグッと飲んだ。

 

 それから明け方まで僕らはいつもと変わらない音楽話をしていた。いや、変わらないように僕は会話をなるべく音楽の話題へ誘導した。敏夫はしんみりと思い出に浸りながら酒を酌み交わしたかったようだが、それはエンドレスで鳴りっぱなしの『PUNK』が許さなかった。僕らは五年間同じアパートで苦楽を共にした。敏夫は年上だったが「敬語はやめてくれ」と何度も言うので、いつの間にか「です、ます」口調は消えていった。思い出は発酵するほどあるが、それを掘り返すまでもなく毎日は楽しかった。

 

向かいの電線に雀が集まりだし鳴き声が点々と聞こえてきた。

「じゃあそろそろ寝るかな」

「おう、またね」

 

「あれ、スタジオ入んのいつだっけ?」

ノブに手をかけながら敏夫は振り返り言った。

「土曜だよ。九時から十二時まで」

「ああ、そうだった」

眠たそうな目を閉じたまま「OK」と酒の臭いと共に力なく吐いた。

「予約頼むぞ」

僕が戸を閉めた後も「OK、鳥ぃ、うるせぇな」と集まり始めた雀達をからかって鼻歌

を唄いながらフラフラ帰っていった。

 

 ベッドに腰かけしばらく部屋に充満している煙に巻かれていると、シド・ヴィシャス“マイ・ウェイ”が聴こえてきた。まったくふざけたカバーだが、今の心境に妙にピッタリと響いた。一分過ぎくらいでギターにエッジがかかり、張り出したシドの歌声で僕は周りを見回した。ビールの空き缶が床に四缶転がっている。机の上にもう一缶。あと一缶は…?

 残る一缶の行方を考えながら、とりあえず空の四缶を片付けた。

 「あっ」

 ガシャガシャと資源ゴミの袋に缶を入れていると突然思い出し、すぐにレンジを開けた。解凍されたたこ焼きは旨そうな匂いを放ち萎れていた。そのシワだらけものに食欲は湧かなかったが、突発的に一つ口に放ってみた。サバサバ、パサパサとした味わう余裕を与ない食感だったので、二、三回噛んでゴミ箱へ吐き捨てた。口の中にあの旨そうな匂いが残り気持ち悪かったので机のビールで流し込んだ。

 「不味い」

 レンジの皿を取り出して、円状に並んだたこ焼きをほろうようにして、すべて捨てた。

 

 

 

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