Daisuke Ibi / NOISE DISTRACTION CREATIVE
BIRTH OF THE BE-BOP
Chalie “Bird” Parker
~その圧倒的な才能とカリスマで魅せるJAZZの革命者~
天才とされる人はたくさんいます。エジソンがいなければレコードはなかったでしょうし、ピカソがいなければ、この世はつまらないデザインで埋め尽くされていたかもしれません。そして、このチャーリー・パーカーがいなければJAZZはクラシックやポップスに荒らされていたかもしれませんし、現在のように若者をクラブで熱狂させ、今なおたくさんの人を夢中にさせてくれるようにはならなかったかもしれません。チャーリー・パーカーがその才能を開花させた後、JAZZはガラリと変わりました。その圧倒的な演奏と、人を惹きつける知性と話術はカリスマ性を際立たせ、その鳥のように軽やかなサックスの音色から“バード”の愛称で親しまれ、ニューヨークのミュージシャンは誰もが憧れ、崇拝しました。「JAZZシーンにはチャーリー・パーカーとその他大勢の二種類しかいない」1940年代のニューヨークではそんな声が囁かれていた程、その影響力は絶大でした。
しかし、これは天才の性なのか、大酒飲みでジャンキー、女癖も悪く、とにかく回りは振り回されっぱなしでした。
それではそんな天才“バード”ことチャーリー・パーカーの生涯を僕の知る限りですが話したいと思います。
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チャールズ・パーカー・Jrは1920年に生まれ、カンザス・シティで育ちました。大酒飲みの父親は息子が11歳の時に妻と別れました。13歳の時にサックスを買い与えてくれたのは母親のアディでした。サックスを手にしたパーカーは近くのバーに通ってはそこで演奏していたダブリング・アップ(元のテンポの倍の速さでソロを吹くこと)の名手バスター・スミスの演奏を真似していました。パーカーは15歳で学校を辞めて地元のバンドに参加します。その中でパーカーは酒を飲み、マリファナを吸い、さらにはコーヒーに覚せい剤を混ぜて飲むようになりました。このような薬物依存は最後までパーカーを苦しめることになります。
16歳で結婚し、17歳でパーカーは父親になりました。そして暇さえあればサックスを練習し、チュー・ベリーとレスター・ヤングのレコードを聴くという生活を続けました。
1936年パーカーは酷い交通事故に遭い肋骨と背骨を骨折します。同乗していた友人は亡くなりました。パーカーはベッドの上で2ヶ月間を過ごし、定期的に打たれるモルヒネで心と体の痛みを和らげました。
その日を境にパーカーは大きく変わりました。どこか冷めたようになり、妻とも友人とも母親とも、うまくコミュニケーションが取れなくなっていました。
そんなある日、奥さんが帰宅するとパーカーは腕に注射針を刺していました。彼は僅か17歳でヘロインを手放せなくなっていたのです。彼は何週間も家に帰らず、たまに帰ったと思えば、妻の持ち物を質に売り払うようになりました。そして「自由になれば、俺は偉大なミュージシャンになれるはずだ」と頼み込み、離婚を承諾させました。
その後NYにやってきたパーカーは1939年の12月、ダウン・オールズ・チリ・ハウスでのジャム・セッションで驚異的な才能を世に示しました。それは誰の耳にも恐らく魔法のように聴こえたことでしょう。パーカーはそれまで誰もがやっていたようなメロディによる即興ではなく、和音(コード)による即興演奏披露したのです。
パーカーが見つけた魔法の正体は、それまでの音楽理論ではとても考えられない音の組み合わせ(つまり不協和音になってしまうと考えられていた組み合わせ)を使っても、正しいハーモニーを奏でることは可能だという不協和と協調のギリギリの音でした。これに元づいて誰も聞いた事のない演奏をした訳です。この方法論によってJAZZはブルースっぽくやることも、スイングすることも自由自在になりました。
この偉大な発見により、パーカーはスイング時代の決まりきった演奏法を打ち壊しました。まったく新しい豊かなメロディとハーモニーをJAZZにもたらしたのです。
その一夜を境にジャズはスイング・ジャズから、モダン・ジャズへと変化していきます。
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パーカーはJAZZをより複雑なものにしました。彼のサックスの音は鋭く、ハードで、中には「情緒を欠いた音だ」と非難する人もいました。
しかしパーカーが演奏始めると「リーチ、リーチ」(トコトンまで行け!)と言う声が、よく聞こえたそうです。周りは皆パーカーの潜在能力が底知れないことを理解していたのです。そう声をかけ続ければ、パーカーはとても不可能だと思うことも平気でやってのけたそうです。
世は戦争真っ只中でしたが、ドラッグ中毒のせいで徴兵されなかったパーカーは、1942末アール・ハインズのバンドに参加します。そこには次の時代を担う才能が集まっていました。そこで生涯の友となる、トランペッターのディジー・ガレスピーに出会います。しかしパーカーの個性に他のメンバーは戸惑うこともしばしばだったそうです。こんなエピソードがあります。
ある晩のショウでパーカーは他のメンバーにピンを渡してこう言いました。「もしソロの順番が回ってきた時、俺が寝ていたらこのピンで足を刺してくれ」まだそんなに親しくも無かったらしきメンバーは、言われたとおりに受け取ったピンで刺すと、パーカーはその痛みで目を覚ましソロを吹き始めました。
パーカーはアール・ハインズのツアーに参加したことでディジーと毎晩競演できるようになりました。ディジーは、こう当時を振り返っています。「ツアーを続ける内に僕らは親しくなっていった。ステージが終わってもジャム・セッションして、ホテルに戻ってからも僕らは一緒に演奏した」二人は一緒に練習し、新しいアイデアを練りました。卓越した演奏技術と斬新なアイデアを持ち合う二人は、他のミュージシャンではとても演奏できない難しいアイデアやコード進行をステージでやってみたいと考えたのです。
二人の才能がぶつかり合って生まれる音楽的エネルギーはとてつもないもので、他のメンバーはついていけませんでした。
しかし1942年、ミュージシャンが所属するアメリカ音楽家連盟とレコード会社との間に印税の支払い方法を巡る対立が発生、連盟側はレコーディングをボイコットし、新しいレコーディングは一切行われなくなりました。この問題が全面的に解決し、ミュージシャン達が再びスタジオに戻ってくるのは二年以上後のことです。
そのためパーカーとディジーが作り上げていた新しい音楽、後に“Bebop”と呼ばれる演奏スタイルが世に知られるまでには今しばらくの時間が必要になります。