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 鳥の鳴き声がする。頭は目覚めているが、瞼は開かなかった。部屋の隅にしゃがみ込み、CD棚にもたれて眠っていたようだ。夢とも現ともつかない感覚の中で、ただ目を閉じたまま大きく息を吐くとベッドの方から「アチッ」と女の声がした。「誰だ?」僕は驚いて目を開けた。

「おはよ。コーヒー勝手にもらってるから」

美雪はケロっとした顔で机から灰皿を取った。

「おはよう」

ゴソゴソと体を起こし、カーテンを開けた。

「飲む?」

椅子に座った僕はカップを受け取り、窓から差し込む光に揺れる湯気をぼうっと眺めた。

 

「あのさぁ」コーヒーをすすって、夢の余韻を引きずりながら僕は言った。

「ん?熱かった?」

「遠く離れても、気持ちが通じてれば問題ないんじゃない?」

「あぁ~、寝起きからあいつの事考えたくない」

「まぁ聞けよ。要は相手を信じられるかって問題だろ?」

「でも向こうにその気が無いなら、意味無いじゃん」

「そりゃ、そうだな。でも今後の選択肢として使えねぇか?」

「今後の選択肢?」

「今回はいきなりだったから混乱したんだろうけど、次同じような事があった時は遠距離って手もあるって覚えとけよ」

「いやよ。遠距離なんて」

「じゃあ、それまでの相手だったって事だな」

「人って気持ちだけじゃ通じ合えないのよ」

「だから、信じるんだよ」

「信じたわよ!で、結局裏切られた訳じゃない!」美雪は声を荒げた。

「そうだな。それでも人を信じるってのは大切だよ。人が信じられなくなったら世界は闇になっちまうからな。裏切られたとしても、そいつは何億分の一な訳だ。傷つくし、苦しいだろうけど、心ってのは不思議なもんでさ、また必ず他の誰かを見つけるように出来てるんだよ」

「何?励ましてるの?ありがと。でもね、大きなお世話」

「別にそんなつもりはないよ。俺はただ……、心の仕組みを言っただけだ」

「心の仕組み?」

「そう、だから…、信じろって話だ」

「何を?」

「えっ…何?未来……とか?」

 言葉に詰まった僕は無理やり当てはまりそうな単語を引っ張った。その無理やり加減に気づいたのか、美雪はフっと一息吹きだした。

「人でしょ?話の流れからすればさ」

「そう、人を信じる。単純でいて、結構難しい。でも大切なことだよ」

「そうねぇ…、でも人の見極めはしっかりしなきゃね」

美雪は煙草に火をつけて、フーとキレイに煙を吐いた。

「そうだね。でもまぁ、見過ぎるってのもマズイけどね」

「じゃあ、どうすればいいのよ」

「ただ見てりゃいいんだよ。普通にさ」

「あっ、それ無理。私普通って苦手なの」

「だから結構難しいって言ったろ?それにお前だけじゃない。人はみんな、この『普通』の照準合わせに苦戦してんだよ」

「……みんな?」

「そう、誰だって……、多分…な」

「多分って…、あんたさっきから…」

美雪は眉間にシワを寄せているが、表情に笑顔の兆しが見えてきた。

「締めの一言が決まらないね」

「物事をはっきりさせんのが嫌いなんだよ」

僕はコーヒーを一口飲んだ。

「何それ」

 そう言って美雪は笑った。僕は目を擦りながらCDのプレイボタンを押した。スピッツの『君が想い出になる前に』が昨夜の小さな音のまま、そっと流れ始めた。

 

 美雪がドアを開けると、光が煌々と差し込んできた。

「じゃあ帰るわ」

スニーカーのつま先をトントンとして美雪はグウッと背伸びした。

「おう、じゃあな」

「薫はさぁ……」

目をギュっと閉じたまま美雪は言った。

「結構良いわね」

「はっ?」

「その…、すっとぼけた変な感じ。抜けてるのに、妙な説得力があるのよ。私だけかもしれないけど」

「そうかい?ありがと。まぁ、色々あんだろうが、そう深く思いつめるなよ」

「そうねぇ…信じる……ねぇ。」

「そう、信じる。悪くねぇだろ」

「私もまた誰かに巡り合えるのかな?」

「おいおい、おっかねぇ事言うなよ。まだ二十二だぞ。どっかでまた誰かに逢えるさ」

「そうね…、本当に…、そうよね」

目に涙を浮かべながら、美雪は声を詰まらせた。僕は部屋からボックス・ティッシュを取ってきて、頷きながら無言で差出した。

「ありがとね。薫、ありがとう」

「いや、別に…」

「本当はね……、私さ…バカみたいなんだけど…敏夫とずっと一緒にいられると思ってたの…、だって三年も続いた事なんて…無かったから…、本当に何だか…ごめん」

 涙はコンクリートにポタポタとこぼれていった。こういう場合、どうすれば良いのか分からなかった僕は、ただただボックス・ティッシュを片手に、晴天の空を見上げた。

 

「ごめんね…、何かさ。今、この瞬間、急に分かっちゃったのよ」

 しばらくの間、僕を置き去りに泣き続けた美雪は、目を拭いながら言った。

「何が?」

「……別れ」

「ああ…」

そう言って僕は泣き顔から目を逸らした。

「そうね…、そうなのよ。別れたのよ」

「大丈夫か?」

「何が?大丈夫よ。今は泣いてるけど、いつかどっかで誰かに逢えるんだから。でしょ?」

「お?ああ、逢えるさ。きっとな」

「きっと、なの?」

「え?ああ…、俺には美雪の未来なんてわかんねぇからな。絶対とは言えねぇよ。でも確かなのは……」

「何?」

「今を乗り越えなきゃならないってこと…話はそっからだ」

 そう言うと、美雪はまたボロボロと泣き出した。僕はもたれたドアに背中を滑らせて座り込み、ティッシュの箱をコンクリートに置いた。風に吹かれた涙が、サンダルから覗いている足の指を掠った。

 

 「はい…、ありがと…」

空を見ていた僕はその声に視線を美雪の顔へ戻した。

「もういいかい」

ティッシュを持って立ち上がると、美雪は早速二、三枚をサッと抜き取り目に当てた。

「うん、後は家で、気持ち整理するわ…」

「ああ、まぁ、何かあれば連絡して」

「うん、あ…これ、捨てといて…」

 僕に握りしめていたティッシュを渡して美雪はトボトボと去っていった。階段を下りたのを見届けて部屋へ戻ると、うっすらとした眠気が頭を包んだ。大きく息を吸い込んで、溜め息のように吐き出してから、僕はベッドに潜った。するとすぐに「おい、何やってんだ。始まるぞ」と聞き覚えのない声が頭の中で小さく聞こえた気がした。何だろ?ウトウトと考えている内に、僕は眠った。

 

 

 

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