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Birth of The BE-BOP Vol.3

 

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 1949年パーカーはストリングスをバックに甘いラヴソングを収録したアルバムを製作しました。「パーカーは魂を売った」という非難もありましたが、ここでも革新的な事をしっかりとやり遂げています。やっぱり凄いのです。

 

 1949年“バードランド”というクラブがオープンします。もちろんパーカーの愛称から名づけられたクラブで、定期的に出演しました。

 

 高まる名声の中、私生活でもパーカーは安らぎを見つけます。ダンサーのチャン・リチャードソンと暮らし始めたのです。パーカーは彼女の娘も養女に迎えました。やがて二人は子どもに恵まれました。息子のベアードと娘のプリーです。

 この辺りでパーカーの多重人格性が垣間見られます。一つはJAZZMANとして常に新しいものを作り上げていく革命者。二つ目はジャンキー、それも半端ではない量です。三つ目は良いパパとしての顔、パーカーは近所では「いつも笑顔の気さくな人」で通っていました。

 当時のパーカーの一日はこんな感じです。まず夜通し演奏して、朝から昼まではジャム・セッション、それ以外はドラッグの時間です。「もっと酒を、もっと女を、もっとドラッグを、これが俺の拠り所さ」そう呟きながらパーカーは友人たちの前でも平気でヘロインを打っていました。 パーカーの音楽を我が物にしようと若いミュージシャンはパーカーに近づきました。そしていつしかドラッグ癖まで真似するようになり「こうすれば自分もバードのようになれる」という幻想に溺れていきます。 ピアニストのジョン・ルイスは言いました。

 

「バードは燃え盛る炎だ。迂闊に近づけば火傷をする」

 

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 1952年、パーカーとディジーはテレビという新しいメディアにジャズ史上最高のプレイヤーとして表彰されました。

 プレゼンターが問いかけます。「ご感想は?」

「僕らの気持ちは言葉ではなく、音楽で表現したい」 生放送での演奏中、パーカーはその冷ややかな表情をチラリとも変えませんでした。瞳の奥の鋭いまなざしと絶えず動く指だけがパーカーの音楽への情熱を物語っていました。

 

 もはやBebopの衝撃はいたるところに飛び火していました。それはパーカーやディジーが思いもしなかったほどJAZZを変えていたのです。 後に続いていく、MJQ、バド・パウエル、セロニアス・モンク、そしてマイルス・デイヴィス…皆、Bebopの洗礼を受けて新たな地平を切り開いていくことになります。

 

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 1954年3月、パーカーはハリウッドのクラブで演奏していました。一時的にドラッグからは離れていましたが、その代わりの大量のアルコールのせいで体は膨れあがり、身なりも乱れていました。そこへニューヨークの妻から電報が届きます。2歳になる娘プリーが肺炎で亡くなったのです。

 生まれたときから元気がなかったプリーは、長い間その原因が分からず、妻であるチャンは病院を転々としていました。そしてある小児科でようやく心臓に穴が開いていることがわかったのです。早速手術を…と手続きをしていた矢先のことでした。

 知らせを受けた晩、ロサンジェルスから、パーカーは四通もの電報をチ妻に送りました。一通ごとに、その内容は支離滅裂さを増していきました。

 

「愛する君へ、予期せぬ娘の死に、僕は君以上に動揺している。僕が戻るまで、どうか葬式は済ませないでくれ。せめて僕は最初にチャペルのドアをくぐりたい。病院にいる君の傍にいられないことをどうか許してほしい。君の夫、チャーリー・パーカーより」

 

「愛する君へ、どうかお願いだ。気をしっかりもってくれ チャールズ・パーカー」

 

 

「チャン、助けてくれ チャーリー・パーカー」

 

 

「娘は死んだ。そのことなら分かっている。できるだけ早く帰る。僕の名前はバード、ここは凄くいいところだ。皆僕にとても親切にしてくれる。すぐに行くから安心してくれ。君の元に真っ先に駆けつける。僕は君の夫だ。 チャーリー・パーカー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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