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 父のいる病院は、駅からバスで一時間ほどかかる。施設同様、街から遠く離れた場所に父はいた。いつ施設から病院に移ったのかは、連絡を受けた記憶はあるのだが、どれくらい前のことだか覚えていない。札幌で暮らしていたせいもあるのだろうが、僕にとっては心配するようなことではなかった。「発病から二十年、何だかんだ言いながらここまで生きてるんだ」大丈夫だろ。僕はバスに揺られながら、車窓から見えた実家を通り越した。  

 病気はすでに全身を蝕み始めているということは知っていた。相変わらずのいやらしいスピードで『立てない』『話せない』『食べれない』と徐々に徐々に、父から自由を奪っていった。もう車イスにも乗れないから散歩もできないし、以前は理解できた言葉も、今ではフィーリングで対応していた。つまり見舞いに行った所で僕には何もできないのだ。ただただ弱っていく父の姿を毎年の正月に見に行くなかで、そんな僕の無力感は次第に現実を曖昧にし始め「生きていればOK」と父の状態をより大雑把に捉えるようになった。「胃に直接穴を開けて栄養を送るようになったよ」と母は電話で言っていたが、それでも「何とかなるんじゃねぇ?」という楽観が僕にはあった。それはここ十数年に渡り「来年は、もう…」的なことを散々聞かされていたが、父はそのハードルをいつだって乗り越えた。そんな日々の中で危機感が麻痺してしまったのかもしれない。窓枠に肘を乗せて、秋の心地良い日差しを受けながら、僕は久々の苫小牧の風景を見ながら、やがてウトウトと目を閉じた。

 

 バス停に着くなり、僕は早速煙草をくわえた。

「さて、どこだ。病院は…」

 正月に来たときは母、姉と一緒だったため道など覚えているはずもなく、辺りをキョロキョロした。民家が所狭しと立ち並んでいるが、ちょっと向こうにコンビニが一件あるだけで、目印になりそうなものは何一つない。

「こっちだったよな」

 煙をなびかせながら勘を頼りに少し歩くと、すぐに病院は見えた。

 

 途中、犬の散歩をする老人とすれ違ったが、妙に人の気配がしない印象を受けた。閑静な住宅街とはこんなものなのだろうか…。病院の前には小さな公園があったが、人影はない。そんな、空っぽの公園で、風と遊ぶ枯葉に目を留めていると妙な印象の訳がふと、浮かんできた。

「父さんに会うから…かな?」

僕は深呼吸して入口のドアをくぐった。

 

 三階の病室まで僕は階段で上った。三階の階段の出入口はナースステーションの真ん前で、車イスが通れないようにと低い柵がしてあった。僕が柵を跨ぐと、車イスに乗ったじいちゃんがヨロヨロと近づいてきて、じっと僕の目を見つめた。あれ?面会するには何か手続きがいるんじゃなかったっけ?確か名前書いてなかったっけか?老人から目を逸らして面会の手順を思い出そうとしていると、白衣の天使がふと視界を掠めた。

「あ、ちょっ、すいません」

僕はとっさに呼び止めた。

「はい?」

「面会に来たんすけど、あの…どうしたらいいでしょう」

「あっそれでしたらあちらのノートに記入をお願いします」

僕は小さな机に置いてあったノートに名前や見舞い者との関係を書き、目の前にあった消毒液で手を拭いた。

 

 ナースステーション直結の病室に父はいた。首を伸ばして中を覗くと、父の足が見えた。息子が父を見舞いに来ただけじゃねぇか。何をこそこそしているんだ。

「こんにちは」

 囁くような声で言ってから、僕は病室へ踏み出した。部屋には父以外に二人いて、じっと固まったように眠っていた。ベッドの前に立ち、父を黙って、見た。目は閉じているが、起きていることが何となくわかった。

「父さん」

小さく一声かけると目がゆっくりと開いた。

「ああどうも、久しぶり。調子どう?」

父は目を開ききると薄っすらと驚いたような表情を浮かべて僕を見た。

「あっ今日はね。その…何となく、来てみたんだ」

来たはいいが、どうすれば良いか分からず、何となく足元に立っている僕を察したのか、父はゆっくりと手を動かして窓の方を示した。手のほうへ目をやると、丸いパイプイスが見えた。

「あっ、そうだね」

イスに座ったものの、話題がまったく浮かばないまま、珍しいものを見るかのようにじっと僕を見つめる父としばらく向き合った。

「あぁ……ああ…」

父はそう言って、ベッドの柵に掛けあるリモコンへ手を伸ばした。

「ベッド起こすのかい」

父が頷いたので僕はリモコンを取ってボタンを押した。ウィーンと機械的な音を立てながらベッドは父の上半身をゆっくりと起こした。

 

 ベッドに座る体勢になった父を前に、無言でいるのも何だか嫌だったので、取り合えず近況報告をすることにした。

「あっ今ね。札幌の中古レコード店でバイトしてんだ」

「変な友達のおかげで、結構快適な札幌ライフだよ」

「相変わらず音楽漬けの毎日さ。まぁ金は無いけど、楽しくやってるよ」

父は僕の顔を黙って、じっと見ていた。表情が乏しいのは、ひょっとしたらもう頬の筋肉が言うことを利かないのかもしれないなぁ。そう思いながら話を続けた。

「結構寒くなってきたね…って言ってもここじゃわからないか…」

すると父が手を伸ばした。

「あ…あぁ……れ」

その手の先にはトーキングエイドというボタンを押すと声が出る機械があった。五十音順に並んだ文字はそれぞれがプラスチック円に囲われていて他の文字にずれないように工夫してある。僕はそれを取り、父の手前に持っていった。

「何か欲しいの?」

震える手にボタンを押す専用の棒を渡すと父は文字盤をじっと見ながら、何かを考えているようだった。僕はトーキングエイドを支えながら父の言葉を待った。

“みみみみわわわたたたああか”

父が押した文字は最早暗号だった。僕はその文字盤を手元に寄せて考えた。

「みみみ…あっ水?喉渇いた?」

父は首を横に振った。

「違うの?えっじゃあ、何だ?」

僕は父からのメッセージを読み取ろうと頭を捻らせた。

「駄目だ。わからん。もう一回押して」

僕は再度父の前にトーキングエイドを持っていった。今度は震える父の手を握り「これ?ここ?」と確認をしながら棒の先をボタンへ運んだ。手には異様に力が入っていてなかなか言うことを利かなかった。

“みみみやんたたたなななはははは”

やはりダメだった。

「この機械大丈夫か?さっきからやたら連打になるぞ」

僕が文句を言うと父は大きく口を開けて小刻みに息を吸い込みながら笑った。もちろん声は無かったが、無表情でいられるよりはずっと嬉しい。しかし、そんなホっとする僕の目の前には難問が立ちはだかっていた。

「何だろう?」

画面に映る文字との睨めっこは続いた。すると父が突然ゲホゲホと咽だした。

「大丈夫か」

僕は背中をさすったが、一向に収まらないためナースコールを押した。

 

 隣の部屋からすぐに看護師さんがやってきた。

「じゃあまずベッド下げますね」

 僕はベッドサイドで立ちっぱなしで、ただただその光景を見ていた。多少の傾斜を残して横になった父は大きく口を開け、看護師さんに口腔内に張り付いたネバネバをスポンジの付いた棒で取ってもらっている。そういえば母と姉がこんな状況の時こんなことをしていた気がする。僕はそんなことを思い返しながら、ふとタオルケットから覗いていた足へと目を滑らせた。それは最早肉の無い、皮の付いた太めの骨のようだった。サッとタオルケットを被せると先ほどの暗号が突然解けた。

 

 看護師さんが去ると父はすぐに“ベッドを起こせ”と合図した。リモコンで背中を起こすと父は満足そうにパイプ椅子の僕を見下ろした。

「ああいうの、たまにあるの?」

口に指を当てて聞くと、父は目を閉じて頷いた。そんなことより僕は答え合わせをしたくて、さっそく尋ねた。

「あのさっきのやつ。“みんなは?”って聞いたんでしょ?」

父は小さく頷いた。

「おお!当たり?」

頷く父を見ながら僕は思わずガッツポーズを決めた。

「みんなね!ああ…でもみんなは、知らないよ。今日は一人で来たからね。姉ちゃんは大学にいるんじゃない?母さんはまだ仕事中じゃないかなぁ。俺は今日休みでさ、久しぶりにちょっと顔でも見に行こうかなぁって思って…それで何となく来たっつーか。まぁ、そんな気まぐれな感じだから…、みんなも俺が見舞いに来てる事は知らないよ」

「あ…あぁ…ああ」

正解した喜びのあまり話まくる僕を、父はトーキングエイドに手を伸ばして遮った。

「お、今度は何だい?」

僕は得意げにトーキングエイドを父の膝に乗せ先ほどと同様にして筆の行方を見守っていた。

“おおかかかさわわん”

勢いづく僕にはこの単語がわかった。

「お母さん?…は、まだ仕事中じゃないかな」

父は違うと言わんばかりに首を横に振った。

「えっじゃあ何だ?」

父は続きを打ち込もうと再度トーキングエイドに向かった。僕はそれまでの文字を消去して、父の手を取った。

“かきききあうけけららるるる”

そう打ち込んで父の手は止まった。

文面を見た瞬間に直感が走った。これは無理だ。分からん。

「お母さんに関係あるの?何だろう…う~ん」

そう、考えるフリをしていると、父は空を見ながら口をポッカリと開けて、ボンヤリとし始めた。その隙に僕はそっとタオルケットの下にトーキングエイドを潜らせた。

「お母さんも、姉ちゃんもきっと元気でやってるさ」

父と同じ方向を見て、軽く頷きながら呟いた。

「おぉぉあ…まぁ…ああぁぁ」

恐らく“おまえ”と言いたいのだろう。僕の無能っぷりを察してか、父は何か話題を振ろうとしてくれたが、声は言葉を上手に形作れずに、涎となってダラリと口からこぼれた。

「俺は大丈夫さ。今のところ大きいケガもなく、警察の世話になるようなこともなく、変な奴らだけど友達にも恵まれ、元気だよ。だから心配はいらない」

父は明らかな安堵の表情を浮かべた。すると次の瞬間、また先ほどと同様にゲホゲホと咽始めた。僕はナースコールを押してから背中を擦った。

 

 先ほどとは違う看護師さんがやってきて、先ほどと同じような処置をしてくれた。

「あの、長時間ベッドを起こしているのは、良くないんでしょうか?」

「そうですね。ちょっと、疲れちゃうかもしれませんね」

そう言って看護師さんは去っていった。父は若干の傾斜を付けたベッドで、来た時のように静かに目を閉じていた。

「じゃあ、俺そろそろ行くよ」

僕がそう言うと目は、ゆっくりと開いた。僕が席を立つと手がゆっくりと動くのが見えた。僕はその手を掴み、ガッチリ握手した。

 

 病室を出て、帰った時間を記入し、消毒液で数回手を揉んだが、握手の感覚は拭えなかった。ふと顔を上げるとナースステーションの看護師さんがこちらを見ていた。

「あっ帰りますので、宜しくお願いします」

目の合った看護師さんに軽く会釈して僕は階段を下りた。

 

 玄関口にバスの時刻表が貼ってあった。「あっ」ちょうど今行った所だ。次のバスが来るのは…三十分後?…ついてねぇな。腕を組み、少し考えたが一先ず病院を出ることにした。

 

 人気のない公園のブランコに、煙草を吸いながら揺れていた。玄関口に貼ってあったバスの時刻表を見たところ、次のバスは三十分後だ。車もまったく通らないし、鳥一匹見えやしない。ただ枯葉が淡々と風にカラカラ吹かれていく。平日といえども、天気の良い昼間だぞ。この辺のガキ共は何をやっているんだ。ああ、インターネットにテレビゲームですか。何ともまぁ、健康的だこと。父に会った後の心の凹みを埋めるように僕は風景に八つ当たった。

「ああ…寂しいなぁ」

誰か居ねぇのかよ。あまりの静けさに辺りを見回すも、生き物の気配は無かった。こんだけ家が建ってんのに、おかしくねぇか?人住んでねぇんじゃねぇの、空き家かよ。僕はグルリと民家を見回して、ここいら一帯では、目立って聳え立つ病院を見上げた。

「城みてぇだな」

ポケットに手を突っ込んだまま、僕はかつての王様に「またな」と告げてブランコを立った。

 

 

 

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