top of page

                                             17

 

 騒がしい雀たちの早朝社交界のおかげで、その日は七時に目覚めた。僕は大きくあくびしながら布団に居座ることを諦めて、湯を沸かしに台所へ向かった。秋風が窓を揺すり、その音に身を縮めた。ストーブを点けようか迷ったが、まだ耐えられるだろうとパーカーを羽織りながら携帯へ目をやった。

「まだ寝てるだろうな」

おととい、敏夫より「昼くらいに行くから」と連絡があった。

 

「買い物ついでに送っていってやろう」昨日、夢と話していた。

「じゃあ十一時くらいに行ったほうがいいよね」

「そんな急がなくていいと思うよ。あいつがそんな早起きして行くとは思えないから」

「それもそうね。ギリギリでいいか」

 もしかしたら、あいつも話したいことがあるかもしれない。そう思いながら明日の別れに思いを馳せた。

コーヒーを淹れる準備をして、煙草に火をつけると、ヤカンがフツフツと騒ぎ始めた。

 

 時計は十一時を回った。携帯をちらちらと気にしながら、この間渡し忘れたジョルジ・アウトゥオリのCDを入れたフォルダーをトントン指で叩いたり、リモコンを背の順に並べたり、コーヒーをかき混ぜたりしながら連絡を待った。そんなソワソワし始めた僕の足元を、ドアの下の隙間から侵入した冷気がそっと撫でた。僕は椅子に膝を抱えて座り、まばらになった鳥の声を聞きながら、曇り窓に映る暖かな光を訝しげに眺めた。

 

 ドアを勢いよく開けるも、電線には数羽しか残っていなかった。しかも二、三羽が怯んだ以外はふてぶてしく隣人との会話を止めようとはしない。

「いつか食ってやるからな」

 待ちくたびれた僕はそう呟いて睨みを利かすも、一羽として僕を見ているものはいない。今日も良い天気だ。気持ちの良い青空へ、僕はグーと両手を伸ばした。するとその動きに呼応するように、奴らは一羽残らず飛び去っていった。

 

 「おおーい」

 ドンドンとドアを叩くも返事は無かった。辺りは静まり返っていて、妙な感じがザワザワと胸に湧いてきた。ガランとした部屋の中が曇り窓に映っている。

「まだなのかぁ」

 あいつも気持ちの整理とか、色々考えるところがあるのだろう。僕はそう思い、帰ろうとした途端に気が変わった。別れに時間を掛けると湿っぽくなる。それが嫌だった。

「おい、開けろや」

 数回ノックして、僕はノブを捻った。てっきり鍵が掛かっているものだと思いドアを引くと思いもよらずドアは開いた。あら?そのままドアをゆっくり開き部屋を覗いた。中はきれいさっぱりとしていて何も無い。人の気配も、何も無い。蛻の殻だった。

「あっ!あの野郎」

 僕はようやく状況を呑み込んだ。あの妙な静けさに感じた違和は的中した。寂しさがゾワゾワと胸に渦巻き始めたが、グっと噛み締めてから、大きく息を吐くと、そのさっぱりとした光景が、何とも可笑しくなってきた。

 笑いながらドアを静かに閉めて、部屋へ戻ると新聞受けに挟まった広告が、ヒラリと風になびいていた。ピンときた僕は駆け寄って、すぐさまそれを引き抜いた。

 

 寝てるようなので先に帰る。今までありがとな。お互い楽しかったな。じゃあな

 

 広告を机に置いて、冷めたコーヒーを飲んだ。随分勝手じゃねぇか。まぁ、あいつらしいかぁ。でもなぁ…。そう思いながら僕は、あの時の美雪の気持ちを何となく察した。

「こんな感じかぁ」

 こんな時にピッタリの曲はないかと、CD棚の前に座り込んだが、これといって浮かばなかった。「一応連絡してみるか」僕は何となくニルヴァーナの“イン・ユーテロ”をプレイヤーに入れてから携帯を取って、美雪にかけた。数回のコールの後、お留守番電話サービスセンターに繋がった。何か言おうかとも思ったが、切った。

 

 煙草を揉み消していると携帯が揺れた。美雪だった。

「何?」

「何?じゃねぇよ。敏夫、帰っちまったぞ」

「はぁ?だから何?もう関係ないじゃん」

 眠たそうにあくびしながら美雪は言った。

「いや…まぁそうだけどよ…、それよりお前今どこに居るの?」

「どこって、家だけど?」

「家?って…そうか、まぁいいや。元気なのか?」

「は?」

「いやもういいわ。じゃあな」

「あっちょっと待って。せっかくだから遊ばない?」

「今日はこの後用があんだよ。また今度な」

「女?」

「友達だよ。もう切るぞ。またな」

「わかった。じゃあね…」

 背筋がヒヤっとするような、悲しげな暗い声で美雪は言った。僕は電話を切れずに、しばらく沈黙を挟んだ。電話の向こうで微かにイアン・カーティスの声が聴こえる。

「切るんじゃないの?」

「ジョイ・ディヴィジョン好きだっけ?」

「え?ああ、これ?へぇ、そういうバンドなんだ」

「そういう音好きなの?」

「えっ、そうね。好きかも…こういう感じの」

「じゃあ今度その手の音探しとくよ。見つけたらまた連絡する」

「本当?絶対よ。じゃあまたね」

「わかった。じゃ、またな」

 電話を切ると少し気が楽になった。僕はまだ随分残っているコーヒーをレンジにセットしてから、ストーブを点けた。

 

 夢が来たのは十二時ちょっと前だった。僕はさっと広告を差し出した。

「あら?行っちゃったんだ。残念ね」

 パっと見てサっとまた、僕に返してきた。

「そっけないなぁ」

「何が?だって逢いたいならいつでも逢えるじゃない?今生の別れじゃあるまいし」

「そうだけどさ。何か、もうちょっとあるだろう…」僕は広告へ目をやった。

「敏さんらしいじゃない。…また逢えるよ」

「いや、逢えるだろうけどさ。何つーの…、この空振り感?どうもすっきりしねぇわ」

「はいはい、それも時間が解決するわよ」

 夢はそう言うと机の上の『イン・ユーテロ』を取ってベッドに腰かけた。

「珍しいわね。ニルヴァーナ?」

「えっ、うん。何だか聴きたくなってね」

「私はどうもダメなのよねぇ、ニルヴァーナ」

 夢は『イン・ユーテロ』を机に戻し、灰皿を床に置いて煙草を取り出した。

「最近聴いてなかったけど、俺は好きだなぁ。この音」

“ ペニー・ロイヤル・ティー”が流れ始めた。ぼんやりと聴き入る僕を尻目に、夢は傍にあった雑誌を読みながら、退屈そうに煙を吐いた。

「それ吸ったら行くか」

 僕は素足をストーブで炙ってから靴下を履いた。

「そうね。お腹も空いてきたしね」

 夢は雑誌に目を止めたまま言った。僕は支度をしながら「途中で何か食べよう」と言ってストーブを消した。

 

 

 

bottom of page