Daisuke Ibi / NOISE DISTRACTION CREATIVE
9
「おい、もう始まるぞ。早く行け」
ヤクザのような他校の先生と思われる人に注意され、僕は小走りで階段を上り、二階の出入口より会場へ入った。静まり返った場内は、緊張を孕んだ重苦しさが充満していた。それはこれから“あとがき”を壇上で発表するという後ろめたさが、そう思わせたのかもしれない。会場の二階席には審査員のような方々が陣取っていて、遅れて入った僕は審査員の視線を背中にヒシヒシと感じながら、リハーサルの時に座った席に向かった。
「ではこれより第20回、読書感想文コンクールを開催致します」というおざなりな挨拶のあと、他校の生徒が次々と名前を呼ばれては、賢そうな文章を壇上で読み上げていった。その光景をあくび混じりに眺めている僕とは対称的に本田はじっと壇上を見つめていた。てっきり、ふざけながら先生に注意されるくらいを想像していた僕は、そのどこか真剣さすら漂う本田の眼差しに、すっかり拍子抜けしてしまい、何度も時計へ目をやった。
「それでは弥生中学校三年生、佐伯薫さん、お願いします」そんな調子だったおかげでそう呼ばれても大して緊張はしなかった。退屈しのぎに適当にやりゃあいい。そう思いながら席を立つと「頑張れよ」と本田が囁いた。
眩しくスポットライトが照らす中、何度か不自然な咳払いをして、客席を見渡しながらあの可愛いラクダ顔の佐藤さんを探した。照明が邪魔したが、幸運にも視界の範囲内に見つけられた。僕が少し大きく目を見開いて合図すると佐藤さんは気づいて、胸の辺りで小さく手を振ってくれた。
壇上の僕は明らかにやる気がなかった。それまでの連中はマイクをスッと端に寄せ、地声で堂々と読み上げていった。中には文章を暗記している奴までいたほどだ。僕はまず、マイクの電源を確認し、音が出るかゴソゴソ手で軽く触った後で、原稿用紙を台にしっかりと置き、臨時ニュースが入った時の新人キャスターのように、どこかぎこちなく“あとがき”を読み上げていった。しかし途中からは、“佐藤さんが見ている”という意識が、“きちんと読み終えなければ”と働きかけてくれたおかげで、最後の五行くらいは何とか“緊張しているから仕方ない”的な言い訳を言えるレベルまでにはなっただろう、と思った。
それまでと同様の拍手を受けながら一礼し壇を下りると、本田の名前が呼ばれた。すれ違い様「頑張れ」と小さくエールを送った。席に着き一息つくと、すぐに本田が読み始めた。第一声で気づいた。こいつは本気だと。
マイクはそれまでの奴同様、端にずらし、地声で、時々つっかかりながらも力強く、文章に緩急を付けて読み上げていく本田の姿は、数分前まで同じ壇上にいた男よりもずっと立派に思えた。その大きな声を聴いている内に「“あとがき”だから何だってんだ」と妙な開き直りが浮かんできた。確かに僕らはズルをした。だがあの堂々たる姿を見ろ。何を恥じる必要があったっていうんだ。明らかに間違ったことでも、そうなってしまった以上は全力で挑んだ方が気持ち良いに決まっている。僕は数分前の自分のモチベーションの低さを戒めながら、言い訳に“風邪気味だから…”も付け加えようと考え、隣の先生へ聞こえるように軽く咳き込んだが、照明の中で制服のボタンをキラキラと輝かせる本田の声が僕の思惑をかき消した。
「いやー、良かったよ」笑顔で手を叩きながら僕は本田を迎えた。
どっかりと席に着いた本田は、満足気にみえた。
「マジで?てかさ、佐藤さんさ、俺に手振ってくれたさ」
興奮気味に本田はそう言うと、制服のホックを外した。
その後の僕らは互いに緊張が解けたせいか、想像通りふざけ合った。男の名前が呼ばれると互いに舌を打ち、女の子の時は、あの娘は彼氏がいるだとか、メガネを外せば美人だと小声で言い合っていたが結局は「佐藤さんには敵わねぇけどな」という締り方をした。
「それでは、東中学校三年生、佐藤茜さん、お願いします」
来た!僕は入場の時にも関わらず手を叩いてしまった。つられた本田もパチパチとやったがすぐに止め、まるで僕一人が叩いたように、笑いながら少し仰け反って僕を見た。
スポットライトに光り輝く佐藤さんが読み始めると、本田は真剣に聞いていた。軽く足を踏んづけてやったがまったく気づいていない様子だった。間違いなく恋におちた姿だったが、あまりに真剣そうだったため、からかうのは悪い気さえしてきた。
結局僕らは何の賞も取ることはなかった。心底ホっとする僕をよそに、本田は悔しそうに舌を打った。
「え~今回参加した生徒の皆さんには後日記念の盾をお贈りします。それでは皆さん、お疲れ様でした」
ザワつきと共に場内が動き始めた。
「俺は一度学校に戻るけど、お前ら乗ってくか?」
「俺は歩いて帰りますんで…」
早く帰りたかったが、来る時同様、先生と同じ空間ではバレるバレないと気を揉むのがオチだ。
「あっ、俺も歩いて帰ります」
ソワソワとしながら本田が言うと「じゃあな」と先生はそっけなく去っていった。
「後日の記念の盾って何だろう?」
この一件が早く消えて欲しい僕が尋ねると「そんな事…」と本田は辺りを見渡した。
「やっぱり、あれか?全校集会とかでステージに呼ばれんのかな」
「知るかよ。あれ?ああー、お前がゴチャゴチャうるせぇから見失っちゃったじゃねえか」僕は会場をサっと見たが、佐藤さんの姿は無かった。
急いで会場を出てキョロキョロと探したが、やはりどこにも居なかった。しょんぼりと肩を落とす本田を「縁があればまた逢えるって」と慰めながら、僕らは二階ロビーのソファに腰かけた。雨はあがり、ガラスについている水滴が陽にキラキラと光っている。
慰めの言葉を使い果たし、ぼんやりとする僕へ「良かったな。雨あがって」とようやく本田は口を開いた。「じゃあ、もう帰ろう」僕が言うと本田は溜め息をついてゆっくり立ちあがった。
「ちょっと便所寄ってくから、待ってて」
僕は正面玄関近くのソファで待っていた。自動ドアごしにオレンジ色に染まった道路を見ていた。風に揺れる木の葉の音がやけに大きく聞こえた。目の前を通り過ぎて行く他校の生徒を見ながら、僕は何気なく卒業後のことを考えた。すでに志望校は決まっていて今の成績であれば何の問題もなかった。友達との別れといっても、ただ学校が変わるだけで、住んでいる場所は変わらない。そう楽観視していたが、何となく嫌な感じが頭にモヤを作った。何かを見落としている気がしてならなかったが、考え過ぎだろうと、すぐに頭の隅へ、雲のようなモヤを追いやった。
「ここの便所は手拭がねぇな、お前どうした?」
いつの間にか本田が手をズボンに擦りながら目の前に立っていた。
「え?ああ…、それでいいじゃん」
ぼんやりと曇った未来に気を取られながらも、同じようにズボンを手で叩きながら僕はゆっくり立ち上がった。
「じゃあ帰るか」背伸びをしながら僕は言った。
「海通って行かない?」
「おお、いいね」
僕自身も小三までは、近くに海があるとは知らなかったほど、海の気配をまったく感じさせない大きな工場のエントツがシンボルの街だった。しかし子供が想像した、どこまでも続くキレイな砂浜にコバルトブルーの水面を光がキラキラと乱反射する海…、などという景色はどこにも無かった。目にしたのは工場の排水で茶色く変色し、異臭を放つ海と、家電製品の墓場と化した浜だった。それが僕の住んでいる地域周辺の海の姿であって、少し離れればキレイに整備された砂浜があることを知ったのは、中学に入ってからのことだ。
自動ドアをくぐると解放的な風が心地よく体を吹き抜けた。僕はズルがバレなかった安心感にホっと肩を撫で下ろした。
「ジュースでも買ってくか」
本田はそう言って、手を前へギューと伸ばした。
「俺、金持ってないよ」
僕が言うと、本田はスっと学ランのポケットから五百円玉を取り出した。
「奢るよ」
「マジで?」
「海に行く途中で買おうや」五百円玉をポケットへ戻し「あ~あ、佐藤さん可愛かったなぁ」と言って両手をギューと空へ伸ばした本田は、そのまま顔を上へ向けた。
「さあ、行っか」そんな本田を見ながら僕が歩き出すと、「ちょっと待って」とストップがかかった。
「向こうから行かない?」
本田は空を見たまま、僕らの住む地区とは逆方向を親指で指した。東中の方だった。
「お前…、フっきれよ」
あきれ気味に僕は言った。
「いいじゃん。逢えるかもしれないだろう。お前だってさっき縁がどうのって言ってたじゃねぇか」
そりゃ言ったけどさ。面倒臭さで胸がいっぱいになったが、金はこいつが持っていてジュースを奢ってもらう約束もある。早いとこ帰りたかったが、僕は何も言わずに足を百八十度回した。
文化会館から東中までは徒歩で五分もかからない距離にある。本田は横道の度にキョロキョロとしていた。あっという間に辿り着いた校舎の前を「結構ボロいな」などと言いながら歩いている時、僕は前を行くカッパ姿の小さい女の子にハっとして足を止めた。
「ヤベー、傘忘れた」
あっ、思い出したように本田も声を上げた。
「取りにいく…かぁ…、面倒くせぇな」僕は心底嫌そうに文化会館の方を振り返った。
「俺ここに居るから、お前取ってきて」
「何でだよ」
「ジュース奢るの俺だぞ」
「それとこれは別だ」
「別って何がだよ」
「ああ?…、ジュースは…逆方向に付き合ったことでチャラだ」
じゃあ…、僕らは顔を見合わせて右手を引いた。ルパン三世「カリオストロの城」の冒頭でルパンと次元がどちらがタイヤを換えるかを決めるときのジャンケンだ。
フッ!
勝負は一回でついた。
僕は学校を囲っている緩い小さな土手に腰を下ろして周囲をボンヤリと見回した。グランドではサッカーをやっている。本田の姿はもう見えなかった。初めて見る景色に性懲りもなく高校生活への不安が頭の中でモクモクと立ち込めてきた。暇になると顔を見せるようになったこの手の不安はしばらくの間、僕を凹ませた。しかしイライラして思春期の葛藤を暴発させる類のものではなかった。ただ体中のあらゆるやる気をげんなりさせる雲が、どんよりと頭に覆い被さった。
「ああ、あいつ遅ぇな」
ボールを蹴る音と掛け声が絶えず聞こえる中、僕はグラウンドをチラチラ振り返り、草をむしりながら本田を待っていると、ふと、あの可愛いラクダのような佐藤さんの顔が浮かんだ。
「そうか、もしかしたら同じクラスに…」
雲の切れ間を抜ける日差しのような考えがスっと現れたが、「いや、あの賢そうな雰囲気は、絶対に同じ学校ではない」とすぐに雲はまた光に被さった。
車通りのほとんど無い道路は、まるで時間が止まっているように見えた。信号機が変わる瞬間辛うじて時間の動きを感じれるものの、車は一台も通らない。時間はまた止まる。
「カオルー!」
退屈を極めていた僕の背後からそんな声がした。振り返ると見知らぬ女の子がこちらへ駆けてくる。
「久しぶりね。何年振りだろう」
息を切らせながら女の子は言った。
「あの、どちら様で?」
「忘れたの?私を?バカじゃないの。夏樹よ。ほら、子ども会のキャンプで一緒だったじゃない」
「子ども会?……ああ!」
小学生の時、演劇やら運動会やらを子供を集めてやっている団体があった。そのテリトリーはかなり広く、二、三の小学校の奴等がごちゃ混ぜなりながら「交流を深めましょう」的なスローガンの下、様々な行事が行われていた。
「キャンプ、覚えてるよ。寝ている俺の口にガム突っ込んで暗殺しようとした奴だな」
嬉しそうにケラケラ笑う夏樹の後ろから、もう一人女の子が駆けてきた。遠目でもすぐに誰かわかった。
「夏樹…、早い…」
両手を膝に当てて、佐藤さんは体を屈ませた。さっきまでの雲はどこへやら、僕の頭は突如にして晴れ渡り、この偶然に素直に驚いた。
「ごめんね。突然…」
佐藤さんは、まだ息を切らせている。
「いや、全然、むしろ…」
僕はこの嬉しい偶然を受け入れきれず、頭が軽くショートした。
「あれ?でも弥生ってあっちでしょ?何やってんのさ」
「え、それは、ほら、せっかくこっちまで来たんだから、東中でも見てくかって話になってだな…」
「私達、今帰るとこなの。さっきちょっと佐伯君達のこと話したら知り合いだって聞いてビックリみたいな…」
「あれ?じゃあ夏樹も出てたの?」
「出てないよ。私に文才なんてあるわけないじゃん。それよりあんたが出てたってことに驚いたわ。でも、あれ?相方は?」
「ああ、傘忘れてね。今あいつ取りに行ってんだ」
「ふ~ん。あっ、あれね」
信号に捕まっている本田がこちらに大きく手を振っていた。
二本の傘を小脇に抱えながら、本田は全速力で走ってきた。
「どうしたの?」
僕ら三人を見回して、息を詰まらせながら本田は咳き込んだ。
「帰ろうとしたら、佐伯君が見えたから…、あっ、こっちは友達の夏樹」
…どうも…、本田は苦しそうな表情のまま夏樹に小さく会釈した。
「傘……」
僕が受け取ると、小さく深呼吸を何度かして息を整えていた。
「さあ、帰るか。あっ、帰り道はどっち?」
「私達は海の方」
「じゃあ、途中まで一緒に行かない?」
まだ肩を上下させながら本田は首を縦に振った。
「いいよ」即答した夏樹の勢いもあってか、佐藤さんも微笑みながら頷いた。
もちろん二対二に分かれた。夏樹に最後に会ったのは小五の時だから、四年振りだ。
「あんたギター弾いてるんだって?」
「一応な。でも大して弾けねぇぞ」
「何それ。下手なら言わなきゃいいじゃない」
「別に俺が言った訳じゃねぇし…、それより日曜に登校か?」
「ああ、生徒会よ。副会長やってるから」
「副会長かぁ、いいポジションだな」
「あっ、楽そうだって思った?冗談じゃないわよ。結構大変なんだから」
夏樹との会話は自分でも驚くほどテンポ良く言葉が出てきて楽しかった。前の二人も何を話しているのかは分からなかったが時折聞こえる笑い声に、何だか良い雰囲気を感じた。
「薫、海通って帰ろう」
振り返りながら言う本田の顔に、笑いを堪えながら「いいよ」と答えた。
「そうね。薫って言うのよね。男なのに」
「何だよ。夏樹だって微妙なとこだぞ」
「うるさいわね」
そう言って夏樹は持っていたバックで僕の背中をボフッと叩いた。
自販機の前で本田ペアが止まった。
「何飲む?」
少し離れていた僕らに大きめな声で本田は聞いてきた。
「えっ何?」
「奢ってくれんだってさ」
「いいよ。そんな…」
「俺はコーラで、ホラ、遠慮するなよ」
「…いいの?じゃあ、ジンジャエール」
僕らは炭酸組、本田ペアはコーヒー組だ。
海岸に出ると陽は水平線に乗っていた。本田ペアは遊歩道から足をブラつかせている。砂浜に降りた僕らはブラブラ歩いてから適当な流木に腰をおろし、久々の再開に乾杯した。大きくうねる波に海藻が透ける。僕はコーラをすすりながら一面を見渡した。体を吹き抜ける潮風、沈みかけの太陽、波音のサウンドトラック。何かが、完璧だった。
「ちょっと、何一人で浸ってるのよ」
きれいな海が醸し出す雰囲気に酔い始めた僕に流木をペチペチと叩きながら夏樹が言った。聞こえないフリをして、僕は黙って海を見ていた。すると夏樹もあきらめたように海へ目を向けた。上空でカモメが数羽、鳴き声を交わしている。
「あたしさぁ…」
「ん?」
「おじいちゃん子だったのよ。でもね、二年前死んじゃったの。私落ち込んじゃってさ。学校も行けなかったのよ。そしたら、おばあちゃんが『海見に行こう』って私を連れてきたの。いつもの見慣れてる海で、これが何?とか思ってたら、おばあちゃんが言うのよ。海の向こうは、あの世と繋がっているんだって、だから寂しいなら海に来なさいって」
遠く彼方、水平線の向こうは、ここから肉眼では確かに未知だ。
「ばあちゃん、立派だな。一番辛いのは、ばあちゃんだろうにな」
「そう!わかる?そうなのよ。それに私、そういうこと考えたこと無かったから何だか不思議な気持ちになっちゃって…」
「でっかいばあちゃんだな。旦那は遠く海の向こう…かぁ」
僕は後ろに手をついて遙か水平線へ目を細めた。
「でしょう?だから海を黙って見てるとさ、おじいちゃんとまだ心の中で話せてる気がするの」
「それで、元気になったのか?」
「まぁ、その次の日からは学校に行ったわよ」
「あの世かぁ…」水平線に目をやると、何だかそんな気もしてきた。未だ波音の魔法から醒めないせいか、隣で髪をかき上げた夏樹が、妙に大人に見えた。僕はコーラを飲みながら潮風に吹かれた。
「志望校は決めた?」
「俺は南にするよ」
「へぇ、私は西」
僕の街では公立高校が七つか八つあった。中でも東高、南高、西高の三校は、その順に頭の良し悪しが分別されていた。僕は周りの友達が三人南だったので、特に理由も無くそうしていた。大して勉強はしていなかったし、する気もなかった。何せ受験で苦労するのが嫌だった。本田も南だった。
「西には友達が一人しか行かないんだ」
そう言った瞬間、頭は突如にして曇りはじめた。情けなさとも、虚しさともつかないそれは、進路に対しての漠然とした不安であり、疑問だった。
「そうなんだ。そうね。分かる気がするわ」
そう頷く夏樹の共感は、頭の雲を一層厚くした。友達の大切さは分かっている。だが、それに頼りながら新天地での生活を始めて良いものなのか?新しい友達を作り、新しい世界へ一歩前進すべきなのではないのか?……うるさい!その通りだ。そうすることが成長する上で大切なんだろう。もっともだ。でも俺は旧友と楽しく毎日を過ごせれば、それで満足だ。頼りながら?友達を頼って何が悪い。新しい世界なんてどうだっていい。
「茜は東なのよ。やっぱり離れるのは寂しいものね」
波が大きく鳴った。目を向けるとすぐに崩れ、あっという間に砂浜へ溶けていった。僕は立ち上がり、コーラをゴクゴクと飲み、大きなゲップを辺りに響かせてから、数歩進んで、缶を海に向けて思いっきり振り下ろした。コーラが宙にキレイなアーチを描いてから波打ち際に飛び散った。
「寂しいなんて柄か?」
座っていた元の場所に戻りながら僕は言った。
「うるさいわね」
夏樹は照れくさそうに笑った。
それからは魔法が解けたように、しんみりとした空気は消えて、お互いの学校生活の話で盛り上がった。波音が絶えず響く中、頭の雲はその笑い声に次第に薄れていった。
「おーい。そろそろ帰ろう」
本田の声が響いた。「おお」と手を挙げた僕の声は波に消されただろう。制服をほろってから、体をゆっくりと反らした。
「さあ、帰っか」
夏樹は膝を抱えて丸くなったまま、薄暗くなった海を見ていた。
「ん?帰らないのか?」
「帰るわよ。よしっ」
溜め息をついて海を見たまま小さく肩を落とした。
「どうした?」
「何が?」
「いや…、じいちゃんは何か言ってたか?」
「隣の男に気をつけろって、バカだから」
そう言って立ち上がると、笑いながら夏樹は走り出した。砂浜に何度か足を取られながら僕は夏樹を追った。
遊歩道では一足先に着いた夏樹と佐藤さんが本田の話しに笑っていた。
「じゃあ、帰っか」
「おう、茜ちゃん、またね」
茜ちゃん?僕はとっさに本田へ首を回した。
「それじゃあね、薫ちゃん」
「じゃあね、夏樹君」
夏樹はトンっと僕の肩を指で押した。
佐藤さんにサヨナラを告げて、僕は先に歩き出した本田の後を追った。少し離れると本田は嬉しそうに話し始めた。
「茜ちゃんさ。東行くんだって」
「ああ聞いたよ。残念だったな」
「残念?俺は今日から勉強しまくって、行くぞ」
「はぁ?東に?」
どこまで本気なのか分からない本田に、僕はあきれ気味に言った。辺りはとっぷりと暮れ始めた。ぶらぶらと遊歩道を抜けて僕らはようやく正統な家路についた。
「今日、ありがとな。本当」
「何が?」
「話しかけてくれたのお前だったからさ」
「ああ、貸しにしとくよ」
「で、なんだけどさ…」
本田は足を止めた。
「すまん!もう一回付き合ってくれ、茜ちゃんと夏樹ちゃんと薫と俺でさ。茜ちゃんだけ誘い辛くてさ。つい、また皆で会おうって言っちまったんだよ」
両手を合わせて、本田は僕を拝むように頭を下げた。
「いいけどさ。お前勉強は大丈夫なのか?」
「茜ちゃんに会うために勉強するんだから会えば気合が入ると思うんだ。来週!頼む!」
「お前、必死だな」
本田をからかいながら歩く道すがら、僕は夏樹のことを考えていた。子ども会での知り合いとはいえ、年に数回の集まりで、それほど接点があった訳ではない。そんな僕を覚えていてくれたことが嬉しかった。
「お前は?夏樹ちゃんと何話してたんだよ」
「何かなぁ。ああ…海の向こうに何があるか、お前知ってっか?」
「この海のか?……仙台?」
本田は眉間にシワを寄せて、悩みながら答えた。
「……ああ…、まぁ…そんな話だ」
何を期待したのか、僕は本田の回答に少し、しょぼくれた。
「じゃあ俺電話しとくから」
「電話?番号は?」
「聞いた」
照れ笑いながら本田が言った。
「お前、スゲーな。うん、何かスゲーよ。今日のお前」
「まぁまぁ、じゃあね、また明日」
「おお、茜ちゃんにヨロシク」
別れた後、これは絶対に秘密だ、と心に決めた。国道沿いの信号を待ちながら、潮風が背中を昇っていく感覚に身を縮めた。曇りがかった夜空に星は無かったが、ぼんやりと月明かりが滲んでいる。僕は、手を突っ込んだポケットに入っていた「あとがき」をくしゃくしゃにして、持ったままだった空き缶を軽く握った。