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 火葬を終え、家に着いた僕は泥のように眠った。

 

 目覚めると辺りはまだ暗く、シワシワになった喪服を伸ばしながら一階に下りると、母が台所に立っていた。

「おはよう」

「おはよう、ご苦労だったね。顔洗っといで」

 寝ぼけた頭で鏡を覗いてから、冷たい水でジャバジャバ顔を洗うと、いつも通りサッパリとした。

 

 「ちょっと散歩してくるわ」

「あんた、着替えればいいっしょ」

「ここにある服は全部十六の時のものだよ」

「そうかい…、でもまだ暗いよ」

「うん…、でも行ってくるわ」

「じゃあそこのダウン着ていきなさい」

 指差す先には父のダウンジャケットがハンガーに掛かっていた。僕はそれを着込んで外へ出た。

 

 海岸沿いをぼんやりと歩いていた。雪に覆われている浜は久しぶりだ。夜明け前の靄がかかった海が大きく波打っている。僕は遊歩道で身を縮めながら薄暗い風景に目を細めて、喪服の胸ポケットから煙草を取り出した。

 遠くで船の明かりが見える。僕はライターを擦った。あれ?火がつかない。手で風を遮りながら何度も挑戦してみたが火の粉を散らすばかりだ。

「マジかよ」

 僕はライターを白い砂浜に投げつけた。煙草をくわえながら、無いと知りつつすべてのポケットを叩いた。するとダウンジャケットの内ポケットに何やら堅い感触がした。「ライターにしてはでかい」と思いながらも僕はそれを取り出した。正体は小さな革の小銭入れだった。

 きっと父がまだ着ていた頃のものだから十年以上前のものだろう。僕は煙草をしまい中を開いてみた。小さく正方形に折られた千円札が五枚と小銭が数枚入っていた。

「ラッキー」

 喜びながら小銭を数えていると、銀行員と怒鳴りあっていた父の姿が浮かんできた。覚えている中で一番活き活きとしていた父の思い出だ。僕は千円札を一つ取り出して広げてみた。八分割に折り目の入った夏目漱石だ。僕は遥か水平線へ目を向けた。大きく波がうねった。

『父さん札のデザイン変わったの知ってるかな?』

 ふと気になった。僕は自分の財布を見てみた。三枚あった中の一番きれいな野口英世を選んでヒコーキを折った。

『海の向こうはあの世と繋がっている』

 折りながらいつかの夏樹の言葉が頭をよぎっていた。僕は遊歩道の上で千円ヒコーキを構えた。しかし手を離れる瞬間に「そんなバカな」という邪念が手元を狂わせ、千円ヒコーキは指の間からするりと滑り落ちて雪の砂浜に不時着した。

「もったいない、もったいない、何やってんだ」

 僕は我に帰り、遊歩道に立て掛けられているボロボロのはしごを降りた。出だしの一歩で僕の足はズボっと雪に埋まった。千円ヒコーキは雪の塊に引っかかりながら風にパタパタとはためいている。浜の雪は以外と深く、足を取られながらも何とか辿り着き、雪をほろって、財布に戻そうとポケットを探ると小銭入れに手が触れた。真っ白な砂浜から一層大きく波の鳴る海を見つめると、東の空から陽の光がすうっと海面を照らした。それまで薄っすらと漂っていた霧が光に散っていく。すると鮮明になった視界に、海からモクモクと煙が湧き上がっているのが映った。

「何だ?霧…?」

 海から立ち昇るその煙は、まぶしい朝日の中で再び視界をゆるやかに曇らせていった。

 

 僕はその光景をしばらくの間見ていた。

 気づけばそれは薄っすらとした雲のように海面を覆っていた。そして雲を透かすようにしてゆったりと波が蠢いている。

「あの世ねぇ」

 しばらく見ていると何だかそんな気もしてきた。僕は飛行機に何度か息を吹きかけ、羽根をピンを伸ばして波打ち際まで歩いた。飛沫がジャケットを掠めた。ワンステップを踏んで、僕はあの世へ向けて飛行機を飛ばした。手を離れる瞬間、ゆるい追い風が吹いた。

 

僕はすぐに海に背を向けて雪を踏みしめながら浜を後にした。

 

 遊歩道へよじ登り、息を切らして浜を見下したが、飛行機は見当たらなかった。ホッと一息つくと、上空でカモメの甲高い声が響いた。

 朝日がそっと足元に伸びてきた。僕は冷たくなった手を温かくなったポケットに入れて、足取りも軽く海辺を歩いた。

 

 

 

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