Daisuke Ibi / NOISE DISTRACTION CREATIVE
Birth of The BE-BOP Vol.4
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娘の葬儀の後、パーカーは自分自身を持ちこたえることができなくなります。彼は酒に溺れ仕事先のバンドメンバーと揉め事を起こします。マネージャーは怒って彼をクビにしました。家に帰ってもチャンと喧嘩をし、薬を飲んで自殺を図りますが、救急車が呼ばれ、何とか一命を取り留めます。
それにより酒の量はさらに増えました。パーカーは酔ったまま夜通し地下鉄に乗り続けました。恐怖に怯え、ファンに対してさえ懐疑的になっていきます。
「どうせ皆、有名な薬中を見たいだけさ」彼は吐き捨てるように言いました。
ある晩ニューヨークのクラブで昔の相棒ディジー・ガレスピーの姿を見つけます。パーカーはヨレヨレの服で、体は異常に太り、混乱していました。
「何故俺を救ってくれないディジー」彼は何度もそう言って絡みました。
「どうしていいかわからず、かける言葉が浮かばなかった」ディジーは当時をこう回想しています。
10
1955年3月9日、その日パーカーは仕事でボストンに行くことになっていました。駅に向かう途中、ホテルに立ち寄りJAZZのパトロンであったニカ夫人に挨拶をしていくことにしました。パーカーのあまりの顔色の悪さに夫人は驚き、医者呼んだところ、すぐに入院するように言われたのですが、パーカーは頑としてそれを受け入れませんでした。
パーカーはそこでしばらく休養することにしました。3日後の3月11日、ドーシー・ブラザーズのバラエティをテレビで見ていました。パーカーはジミー・ドーシーのサックスがお気に入りでした。
最初の出し物の「曲芸」を見ながらパーカーは楽しそうに笑いました。その笑い声が止まり、彼は息を詰まらせてその場に崩れます。医師が駆けつけたときにはもう、手遅れでした。
公表された死因は肺炎で、肝硬変を併発していました。鑑識の人は彼の年齢を55~60歳と推定しました。実際には彼はまだ34歳でした。
パーカーは故郷のカンザス・シティに葬られました。母親は「葬儀の間JAZZを演奏しないでくれ」と頼みました。熱烈なファンたちはマンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジの壁にこう書き連ねました。
「BIRD LIVES」
(バードは生きている)
あとがき
さて、少々長くなってしまいました。これが僕の知っているチャーリー・パーカー史です。BEBOPというモダン・ジャズの原型を作り上げたという功績はあまりに大きく、偉大であったと思います。僕は現在のJAZZの熱狂の元はここにあると確信しています。しかしバードの意思は、今でも様々なジャンルの音楽の中に、確かに生き続けています。
パーカーは間違いなく天才です。そして天才とは時に思いもしない魔法を作り上げます。しかしその魔法は、自分でも想像だにしなかった怪物を召喚してしまうことがあるということを忘れてはなりません。パーカーが作り出したBEBOPという魔法は、抱えきれない名声と共に、数々の試練をパーカーに科しました。そして娘が死んだところで、パーカーは怪物に心を食われたように思うのです。
しかし例え天才でなくとも、あらゆる事が複雑化した現代はまさにBEBOPそのもの。世の中は怪物で一杯です。せめて心は食われないように気をつけなければなりません。
確かにパーカーは天才で、BEBOPの立役者のように語られますが、彼自身がそれを嫌がった理由は、「自分一人で作り上げた訳ではない」ということを、恐らくパーカー自身がとてもよく理解していたからに思います。自分に影響を与えてくれた大いなる先人たちや若手のJAZZMAN、奥さんのチャン、そしてディジーという友達がいたからこそ、パーカーはBEBOPというスタイルを築き上げることができたのだと思います。
最後に、ダイヤル・レコードに録音された音はヨレヨレの演奏とされていますが、僕は結構好きです。そのヨレヨレ感が僕の耳には、何とも良い味になっているのです。まぁ、人それぞれと言う訳です。評論家っていうのは時に、非常に鈍感です。雑誌や周りの評判に左右されず、自分の耳で感じたままが、一番正しい評価というわけです。
50年以上も前の話でしたが、いかがでしたでしょうか?最後まで読んでくれた方、どうもありがとうございました。
※ パーカーが“バード”と呼ばれた由来は冒頭文のように僕は聞いたのですが、ただ「チキン料理が好きだったから」という説もあるようです。このように50年も経つと話は色々変わってしまって、どれが本当かなんて分からなくなります。結局は自分が信じたものが本当なのです。
参考にした(というか最初と最後の以外、殆どそのまんまです)のはNHK「JAZZ」シリーズ2のパート1~4です。